あらすじ

不愛想で手際が悪い―。コンビニのベトナム人店員グエンが、就活連敗中の理系大学生、堀川に見せた驚きの真の姿。(『八月の銀の雪』)。子育てに自信をもてないシングルマザーが、博物館勤めの女性に聞いた深海の話。深い海の底で泳ぐ鯨に想いを馳せて…。(『海へ還る日』)。原発の下請け会社を辞め、心赴くまま一人旅をしていた辰朗は、茨城の海岸で凧揚げをする初老の男に出会う。男の父親が太平洋戦争で果たした役目とは。(『十万年の西風』)。科学の揺るぎない真実が、人知れず傷ついた心に希望の灯りをともす全5篇。
(2021年本屋大賞 6位)


ひと言
神戸大学理学部卒業後、東京大学大学院理学系研究科で地球惑星科学を専攻し、博士課程修了の伊与原さん。理系の知識たっぷりの作者が小説を書くとこんな素敵な小説になるんだと感動ものでした。読み終えてすぐに「月まで三キロ」(伊与原 新)を速攻で予約しました。

名前を考えたのは、わたしだった。「かほ」にしようとまず決めて、いい字だなと思う漢字を当てたのだ。生まれたばかりの、この子の顔を見なから――。……。……。宮下さんは、もう一度果穂に優しい目を向けた。「大事なのは、何かしてあげることじゃない。この子には何かが実るって、信じてあげることだと思うのよ」
(海へ還る日)

初めて一人で年を越した一月。母が上ずった声で、祖父が倒れたと電話してきた。これから緊急手術だという。すぐ帰るとは言えなかった。翌日から二日にわたって、ある人気劇団の入団オーディションがあったのだ。三年ぶりの募集だった。その夜遅くになって、手術の甲斐なく亡くなったという連絡か姉から入った。大動脈解離だったそうだ。葬儀は明後日だと言われたが、曖昧な返事しかしなかった。そして結局、実家には何も伝えないまま、入団オーディションを受けた。ただ一人自分を理解しようとしてくれた祖父の通夜にも葬式にも出ず、渋谷の会場に向かったのだ。そのときの気持ちを言葉にするのは、今も難しい。死んだ人間のために生きている人間がチャンスをふいにすることはないのだと自分に言い聞かせながら、大股で道玄坂を上った記憶だけがある。
合格者だけに連絡が入ることになっていたが、正樹の部屋の電話は鳴らなかった。実家に電話をかけたのは、そのあとだ。電話口の父は、怒鳴りも嘆きもしなかった。ただ静かに震える声で、「もう二度と、帰ってくるな」と言った。そのそばで母がすすり泣く気配を感じた。あれから、二十年。島には一度も帰っていない。電話をかけたこともない。
(アルノーと檸檬)



「私、介護離職したと言ったでしょう。青森に帰ったとき、母のアルツハイマーはかなり進んでいましたが、それでも時どき私を見て我に返ったように言うんですよ。『お前、こんなとこで何してる? 新聞社の仕事はどうした?』とね。私がどう説明しても、なんで辞めたと泣きわめくだけで、何もわかっちゃくれない。こっちは毎日大変な思いをしているのに、そんなことでごねられたら、たまったもんじゃありません。誰のために帰ってきたと思ってるんだと怒鳴りつけてしまったことも、一度や二度じゃなかった」「それは……辛いですね」「認知症患者の介護ってのは、きれいごとじゃすみませんよ。一時の怒りや疲れが積み重なって、いつか本物の憎しみに変わってしまうんじゃないかと、こっちも怯えるような日々です。実際、母が息を引き取ったとき、私は涙一つこぼしませんでした。張りつめていたものがぷつんと切れて、感情まで麻痺してしまったような状態でね。でもそのあと、母の葬式で親戚や近所の人みんなに言われました。あんたのお母さんは、一人息子のあんたが本当に自慢だった。息子は東洋新聞の東京本社で記者をしてるんだって、会う度に聞かされた。それだけが生きがいだったんだよ、とね。それを聞いているうちに、初めて泣けてきました。仕方のないこととはいえ、母か最期にどんな思いをしていたのか想像すると、切なくて。もう記者ではない身で母を見送っていることが、申しわけなくてねえ」
(アルノーと檸檬)