あらすじ
イラストレーター井出ちづる。夫は若い女と浮気をしている。嫉妬はまるで感じないがそんな自分に戸惑っている。早くに結婚して母となった岡野麻友美。自分ができなかったことを幼い娘に託し、人生を生き直そうとする。帰国子女で独身の草部伊都子。著名翻訳家の母のように非凡に生きたいと必死になるが、何ひとつうまくいかない。三人は女子高時代に少女バンドを組んでメジャーデビューをした。人生のピークは十代だったと懐かしむ。三十代となったこれからの人生に、あれ以上興奮することはあるのだろうか…。「これは、私たちにとってやり遂げなくてはならない何かなのだ」


ひと言
5年ぶりの角田さんの長編で、いかにも角田さんらしい作品だと思いました。(私個人の独断と偏見ですが…)なんでも14年間埋もれていた作品ということで、直木賞の「対岸の彼女」と同じくらいの時期に書かれたということでそう思うのかなぁ。もっともっと角田さんの長編を読みたいです。


もし私か伊都子のような立場にいたらとちづるは考えはじめる。夫と結婚しただろうか。ちづるが結婚を決めたいちばんの理由は、生きていくことへの漠然とした不安だった。経済的なこともあるし、精神的なこともある。三十歳が近づいてくるにしたがって、自分を見失うだのやりたいことだの、考える余裕もなくなった。今だって、帰らない夫を問いつめることをしないのは、あの不安と再度闘うことがこわいからだ。そう考えてちづるはびっくりする。寿士に解決を迫ることができないのは新藤ほのかに嫉妬を感じないからではなくて、あの不安の再登場におそれをなしているかららしい。こんなにもひとりだというのに、物理的にひとりになることがこわいだなんて。
(第一章)

伊都子は、いなくなってくれればいい、と、死んでしまったらいい、の違いを明確に知る。芙巳子は生きていなければならないのだ。生きていなければ、私に「いなくなってくれればいい」と思わせることはできない。自分は憎んでいたいのだ。嫌っていたいのだ。憎み、嫌い続けるためには、母は生きていなければならない。私があの人を生かしてみせる。伊都子はそう決める。死なせてなんかやるもんか。あの人は生きていなくちゃいけないのだ。私かもういいと言うまで。もういい、あなたを許します、私がそう言うまでは、生きてなきゃいけない。
(第五章)

伊都子は母親に褒められたかったのだと、今さらながらちづるは気づく。この子にこんなことができるなんてという、母の言葉をうっとりと聞いていたかったのだ。そうして私と麻友美も信じた。芙巳子の言う通り、これから私たちは自分の人生というものを、とてつもなく魅力的なものを手に入れようとしているのだと、芙巳子が言うのだからそれは本当なのだと、あのとき信じた。信じて、そして息巻いた。
(第八章)

高校生のころが私の人生のピークだったと、ことあるごとに言う麻友美は、またしても新しいだれかをこの世に連れてくるのだ。そうしようという決心の裏に、あの海行きが関係しているような気がしてならない。あの日、海を見つめる母と娘の姿を見て、麻友美は麻友美で、私とは違うことを思ったのだとちづるは思う。友だちも恋人も代替できない、親子というものについて。……。……。
一ヵ月ほど前に電話で話したとき、伊都子はスペインにいくつもりだと言っていた。また写真を撮るのか、とちづるが訊くと、もう前のようには撮らない、と伊都子は答えた。五月のあの日、母に見せたかった本当の海を見にいく。自分以外のだれかに認められるために、写真を撮ることはもうしないわ。だって母ももういないんだしね。伊都子は電話の向こうで、そんなふうに言っていた。
ちづるは返信ボタンを押す。あらわれたまっさらなページに、文字を打ちこもうとして、顔を上げる。窓の外には灰色の壁。その壁を見るともなく見つめ、私たちが前のように集まることは、当分ないのではないかとちづるは思う。思うというより、知る、に近い。何を話し何を話すべきではないか考えながら待ち合わせ場所に向かい、昼下がりのレストランで三人顔をつきあわせ、近況報告をし合うことは、きっともうない。あるとしたら、それはもっとずっと年齢を重ねた、遠い未来のことだろう。なぜなら私たちはようやく今、自分たちの進むべき方向を見つけたのだから。月のない夜に、海の暗さに怖じ気づくことなく進む船のように、私たちはそれぞれ、すでに出立したのだから。
了解です。食事は無期延期にしましょう。またいつか、ひょっとしたらずっと遠いいつか、みんなでごはんを食べましょう。そのときを楽しみにしています。がんばろうね。  ちづるはそう打ちこみ、カーボンコピーで伊都子と麻友美に宛ててメールを送信した。
(第八章)