あらすじ
人気作家・角田光代さんが雑誌オレンジページにて14年に渡り連載を続けているエッセイ「散歩」シリーズ第4弾。多忙ななか、京都出張の折りに震えるほどおいしい卵サンドに出会ったり、魚卵好きで朝から明太子のために行列に並んだり。迷路のような渋谷で途方にくれたり、まったく進まない本棚整理を楽しんでいたり。あっという間に過ぎてしまう日々のできごとを鮮やかに描いた1冊。


ひと言
読み終えて、京都の震えるほどおいしい卵サンドが気になって調べてみました。京都の卵サンドで真っ先に名前があがるのが「喫茶 マドラグ」。でもここではないようなので、もっと調べてみると「よしもと祇園花月」近くの「グリルグリーン」の玉子サンドでは……?。

 

 

今度京都に行ったら食べてみたいなぁ。ちなみにマイベストは麻布十番の「天のや」さんの たまごサンド(名駅で買ったけど…)です。


そういうことを知るに至って、人は岐路に立たされる。本当の本当においしいもの道を突き進むか、降りるか。……。……。
私はあっさりと降りた。降りてみてわかったのは、私はそもそもおいしすぎるものがそれほど好きではない、ということ。本当の本当においしいものは、私にとってときに負担なのだ。あまりのおいしさに、耳の奥がわーんと鳴ったこともあるし、無意識に泣いてしまったこともある。おいしすぎて笑い出したこともある。動悸がしたことも。おいしいものの力ってすごい、と思う。それを食べられて幸せだ、とも。でも、食べ終えると私は疲れているのである。おいしいもの疲れでぐったりとしている。幸福感が、ちょっとしたつらさに変わっている。
温泉と似ている。毎日仕事をして疲れ果て、ときどき無性に「ああ、温泉いきたい」と思う。温泉にいくことが夢のように思える。実際に温泉にいくと、やっとこられた、と思う。うれしくて二度も三度も風呂に入る。そして帰りはぐったり疲れている。自宅ベッドに倒れるように横たわり、とうぶん温泉はいいや……と思っている。そんな感じ。本当の本当においしいものを食べるには、それに見合った愛と体力が必要なのだと思う。そのどちらも持っていない私は「ふつうに」おいしければそれで大満足するようになった。
(おいしいものを極める)

「おいしい」という味覚や感情について、このところ深く考えるようになった。私たちにおいしいという感覚がなければ、もっと世界は合理的だったろう。食べものはサプリでいいのだし、二時間も三時間も食事にかけることもない。「おいしい」が引き起こした戦争や諍いもきっと多々あるに違いない。でも、「おいしい」は私たちの内から消えることがない。コンビニの味が「おいしい」の基準になったなどと言われて、退化しているかのように思うけれど、実際は、百年前より私たちの舌は何千倍もの味を知り、知覚し、「おいしい」を繁殖させているはずだ。
おいしいっていったいなんなのだろう。考えはじめると、頭が靄がかったようになる。その感覚がなければ、生きるたのしみはかなり減るが、でも、たとえばまずいものを食べて落ちこむこともないし、おいしいものが食べたいと欲まみれになることもない。でもやっぱり、おいしいもまずいもなければ、生きているのはそんなにたのしくない気もするし……。
(おいしいってなんだろう?)


ある遠方の地で、友人数人と落ち合った。いっしょに夕食を食べ、見知らぬ町でバーをさがして入り、その土地のおいしいものを言い合った。「おいしいもの」の優先順位がすこぶる高いAさんが、「ものすごくおいしい豆腐を食べさせる店」の話をはじめた。そこは駅から遠く、バスも電車も通っていないので、タクシーでいかなければならないという。早朝に店ははじまるが、豆腐が売り切れ次第店は閉まる。だから七時くらいにいくといいのだが、それでも並ぶ場合がある。その話を聞いて私がまず思ったのは「面倒だ……」ということ。豆腐は好きだが、タクシーも面倒、並ぶのも面倒。しかしAさんはその豆腐がどのくらいおいしいかを滔々と話し出した。聞いていると、本当に魅惑的。この町にまたくるのはいつになるかわからないし、そんなおいしいものはやはり食べておいたほうがいいのではないか。今日は遅くまで飲んでいるし(その時点でもう夜の十二時過ぎ)、明日早く起きられないだろうから、明後日いこうかな。ついに私は言った。面倒を優先する人間を、おいしいもの優先者が覆したのである。するとAさんはぱちぱちぱちと携帯電話をいじり、「明後日日曜は定休日よ。いくなら明日いかなきゃ」と言う。顔と目がきらきら輝いている。おいしいもの優先者は、他人がおいしいものを食べると思っただけでハイになるようだ。私は腕時計を見、「じゃあやっぱりやめる」と言った。二日酔いで寝不足で七時前にタクシーに乗るなんて面倒なこと、できるはずがないと判断したのである。でもきっとAさんはいくのだろう。明日、寝不足でも二日酔いでもいくのだろう。
おいしいものの優先順位が高い人は私にはおそろしい。でもきっと、そういう人たちにしたら、面倒という理由だけであれこれ切り捨てる私がおそろしいだろうなあ。だれかと交際したりともに暮らしたりする場合、だいじなのは、ほかのどんな相性より、この優先順位の近似ではないかとひそかに私は思っている。
(人生の優先事項)

それにしても、「カセットを知っているか、黒電話を知っているか」みたいなことが、以前よりずっとずっと楽しく思えるのはなぜなのか。この先、加齢していくにしたがって、どんどん楽しくなっていくのだろうか。それが老いるってことなのか。
ひとりぐるぐると考え、家に帰り着くころには、「でも、あんまり嬉々として話すのはやめよう」と決めた。そのうち昭和ハラスメントという言葉ができて、若い人がいっしょに飲んでくれなくなるかもしれないから。
(昭和、知ってる?)