あらすじ
あの時桜の下で出会った少年は一体誰だったのか―鍋島と龍造寺の因縁がひと組の夫婦を数奇な運命へと導く。“天地に仕える”と次期藩主に衒いもなく言う好漢・雨宮蔵人と咲弥は、一つの和歌をめぐり、命をかけて再会を期すのだが、幕府・朝廷が絡んだ大きな渦に巻き込まれていってしまう。その結末は…。


ひと言
春ごとに花のさかりはありなめど あひ見むことはいのちなりけり この一首がすべてであるような葉室 麟さんらしい純愛小説でした。先に読んでしまった三部作最後の「影ぞ恋しき」でもそうでしたが、所々に挿れられた和歌がとてもいいです♪


ある時、咲弥は亡夫の多門が好きだった西行の和歌について話した。「深町殿は西行の和歌でお好きなものがございますか」咲弥に何気なく訊かれて、右京は思わず一首を口にした。
面影の忘らるまじき別れかな 名残を人の月にとどめて
西行にはすぐれた恋歌が多い。もとは佐藤義清という鳥羽院北面の武士だった西行は、鳥羽院の中宮だった待賢門院璋子に恋着したため出家したのだという。この和歌にも悲恋の思いが込められている。その思いが自分にもあるのではないか、と気づいて右京は後ろめたい気がした。気がつけば胸の中で咲弥の面影は大きいものになっていた。
(二)

光圀は中庭を散策していたが池の畔にひかえた咲弥を見ると足をとめた。かたわらには藤井をはじめ他の奥女中たちも居並んでいる。光圀が咲弥の前に立ち止まって声をかけようとした時、咲弥は折から咲いていた庭園の桜に目をやり、
春風も心して吹け散るは憂し 咲かぬはつらし花の木の本
と口ずさんだ。これを聞いて光圀は、「散るは憂しか」苦笑すると伽を命じることはなかった。咲弥が口にしたのは、藤井から教えてもらった光圀が花見の際に詠んだという和歌だった。光圀は桜が好きで、水戸の近くの桜を雨の日にわざわざ馬を飛ばして見にいったことさえある。雨がそぼふる日の桜こそ風情があるとして、雨に濡れつつ桜を愛で、宴を開いて酒と詩歌を楽しんだのだ。咲弥の和歌に託した拒絶は光圀の風流心に訴えるものがあった。
(六)

蔵人は桜を見ながら話し出した。「わしは近頃、わかったことがある」「どのようなことですか」「なぜ古の和歌を人々が大切にしてきたのかということだ」「ほう」「ひとがこの世に生きた証として遺すものは、心しかないと思う」「心を遺す?」「そうだ、素養があれば和歌を作り、和歌によってひとがどのような気持で生きたのか伝えることができる。されど和歌を作れぬ者にも、おのれの心を後世に伝える方法がある」蔵人は桜の向こうに広がる青空に目をやった。「どのようにすれば心が後世に伝わりますか」「咲弥殿は亡くなられた前の夫、多門殿が好んだ和歌のことを言われた。あれは多門殿が遺された心のことを話したのだと思う。自らの心にかなう和歌を見つけ、その和歌を後の世にまで伝えていけば心が伝わるのではないかな」「なるほど」「つまるところ、雅とはひとの心を慈しむことではあるまいか」清厳は蔵人がこれほど深く考えるようになったのか、と驚いた。心を残すための古今伝授とは蔵人でなければ考えつかないことかもしれない。蔵人はふと振り向いた。「わしは、桜も好きだが、ひとは山奥の杉のように人目につかずに、ただまっすぐに伸びておるのがよいと思う」「それは蔵人殿らしいですな」「何を言っておる。わしはお主のことを言っておるのだ」「わたしのことですか?」「そうだ。そなたは、その年で武士を捨て、僧として生きていこうとしておる。ひととしては見事だが、さびしくはないのか」「すべて捨てればさびしいと思うことはございません」「そうかな」蔵人は振り向くと、深い目の色をして清厳を見つめた。「わしはお主には捨ててはならぬ物があるような気がするのだがな」清厳は何も答えず、二人の間に桜吹雪が舞った。蔵人は青空を見上げながら、「ひとが生きていくということは何かを捨てていくことではなく、拾い集めていくことではないのか」とつぶやいた。そして、「わしは祝言の夜、好きな和歌を教えてくれと言われて答えられなかった。それから懸命に考えてきた。それで、たった一つだけわかったことがある。それは、わしには咲弥殿に伝えたいことがある、ということだ。わしの生きた証は咲弥殿に何かを伝えることだ」清厳は微笑んだ。「伝えたいことがあり、聞きたいことがあるのを恋というのでしょう」
(六)

蔵人の顔は出血のため青ざめていた。ゆっくり一歩ずつ歩いてくるが、待ち構えていた水戸家の武士たちも、気を飲まれたように動くことができなかった。蔵人にはそんな武士たちの姿が目に入らぬようである。門に立つ咲弥の姿を見て微笑した。蔵人がなおも歩き続け、咲弥に近づいた時、水戸家の武士の一人が駆け寄ろうとしたが、その肩を草加又六が抑えた。
「よせ、あの男は誰にも止められぬ」蔵人にもはや戦う力が残っていないことは明らかだった。それでも蔵人の歩みは止まらないのだ。又六が動こうとしないのを見て、他の者たちも前に出ようとはしなかった。蔵人は男達の前をゆっくりと咲弥に向かって歩いていった。咲弥の前に立った蔵人は苦しげだったが頭を下げて、「遅くなりました、申し訳ござらぬ」「本当に、十七年は待たせすぎです」咲弥の目には光るものがあった。「されど、咲弥殿との約束は果たせましたぞ」蔵人は嬉しげに笑った。「お好きな和歌を見つけられたのですね」「さよう ――」咲弥はうなずいて口にした。
春ごとに花のさかりはありなめど
蔵人が手紙に書いてきた和歌の上の句である。蔵人が見つけたのは『古今和歌集』のうち詠み人知らずの和歌だった。蔵人はあえぎながらも咲弥に続いて詠じた。
あひ見むことはいのちなりけり
蔵人は崩れ落ちるように倒れた。「蔵人殿 ――」咲弥が蔵人を抱えた。咲弥の胸に抱かれた蔵人は穏やかな微笑を浮かべていた。
(十四)