あらすじ
大石内蔵助ら赤穂浪人四十七士の吉良邸討ち入りを目の当たりにした雨宮蔵人。それから四年経ち、妻の咲弥と娘の香也とともに鞍馬山で静かに暮らしていた蔵人のもとに、少年が訪れた。少年は冬木清四郎という吉良家の家人だった。清四郎の主人を思う心に打たれた蔵人たちは、吉良左兵衛に会うため配流先の諏訪へ向かう。次第に幕府の暗闘に巻き込まれ…。


ひと言
「いのちなりけり」「花や散るらん」に続く三部作の完結編とのこと。えっ!この2冊読んでいない!早速図書館に予約を入れました。前2作を読んでいないせいもあるかもしれませんが、冬木清四郎の行動が合理性を欠くような気がして、どうして? んっ?と思うことが多かったように思います。ただ、所々に挿れられた和歌が、とても味わい深くその場面にあっていてとてもよかったです。早く前2作を読まなくっちゃ。


蔵人は盃を口に運んだ。「無謀な真似はいたしませぬ。殿への忠義の思いが果たせればと存じます」常朝が首をかしげて口をはさんだ。「冬木殿の忠義の思いは感じ入るが、なにやら性急に過ぎる気もいたしますな」清四郎は常朝に顔を向けた。常朝は、かような和歌をご存じであろうか、と言って詠じた。 

恋ひ死なむ 後の煙に それと知れ 終にもらさぬ 中の思ひは

恋していると相手に告げることだけがまことの恋ではない。相手に知られずに恋い焦がれて死んだ後、知られるのが恋なのだ、という意である。「わたしは忠義もこれと同じだと思っている。ひそかに、誰にも知られぬ心の中で尽くし抜くことを忠というのではあるまいか」 常朝が言葉を継ぐと、蔵人は感心して口を開いた。……。……。
「ただいまの和歌をお聞きして、西行法師の山家集にある歌を思い出しました。あるいは歌の心が通じておるのかもしれません」「ほう、どのような和歌であろうか」蔵人が興味ありげに訊いた。咲弥は静かに詠じた。

葉隠れに 散りとどまれる 花のみぞ 忍びし人に 逢ふ心地する

葉の陰に散り残っている花を見たとき、逢いたいと思い続けていたひとに会えた気持がするという歌だ。常朝が膝を叩いて感嘆の声を上げた。「なるほど、葉隠れとは美しき言葉ですな」
(三)

「されば上様と越智様が亡き母上様を偲ばれるのと同じではございますまいか。誰もがこの世を去ったひとの影を慕いつつ生きているのかもしれませぬ」蔵人は淡々と口にした後、それがしは、かような歌を存じております、と言って和歌を詠じた。

色も香も 昔の濃さに 匂へども 植ゑけむ人の 影ぞ恋しき

かつて清四郎が鞍馬の蔵人の家に泊まったおり、自らの心根を古今和歌集にある紀貫之の和歌に託して書状に認めた歌である。右近は少し戸惑った様子で耳を傾け、「影ぞ恋しきか ――」とつぶやいた。
(十)

「許嫁であるわたしが、清四郎様の罪をともに背負いたいと思ってはいけないのでしょうか。もう、清四郎様はわたしのことを許嫁だと思っておられないのですか」「いや、そんなことはありません」清四郎がうろたえて答えると、香也は涙が一筋、頬を伝う顔を寄せて訴えた。「でも、清四郎様は決して心の内を語ってはくださいません」「いままでも、そしてこれからもわたしか香也殿を大切に思う気持に変わりはありません」清四郎は思わず香也の肩に手をまわした。香也は清四郎の胸に頬を埋めながら、和歌をつぶやいた。

春ごとに 花のさかりは ありなめど あひ見むことは いのちなりけり

蔵人が幾多の試練を乗り越えて咲弥のもとに届けた和歌である。(父上、母上、わたしもいま、命の出会いを知りました)香也は目に涙をあふれさせて、そう思った。
(十一)

「わたしにはまだ、しなければならないことがあるというのか」「さようにございます。お前様は十七年かけて、わたくしに和歌を届けてくださいました。ですが、わたくしはまだ返歌を差し上げておりませんでした」「返歌をくれるのか」「差し上げますとも、お前様のお心をわたくしは受け止めました。今度は、わたくしの心をお前様に受け止めていただきとうございます」「それは嬉しいことだな」蔵人は咲弥を澄んだ目で見つめた。あたかもいまからこの世を去ろうとするかのような目だった。咲弥は蔵人の耳もとで和歌を詠じた。

君にいかで 月にあらそふ ほどばかり めぐり逢ひつつ 影を並べん

「西行法師の月にちなむ歌です。毎夜眺める空の月と競うほどに恋しいあなたとめぐり逢い、影を並べていたい、という思いの歌です」「めぐり逢ひつつ影を並べん、か」蔵人の目に涙がにじんだ。
(十一)