あらすじ
運命の一戦は家康に軍配が上がり、敗者は歴史に葬られた。そして因縁は、遠く津軽の地で花ひらく。家康の姪 対 三成の娘。これぞ女人の関ヶ原!徳川家康の姪・満天姫、石田三成の娘・辰姫。ともに津軽家に嫁入りした二人は、関ヶ原の戦いから十三年越しの因縁に相見える。そして美姫の戦はここから始まった! 戦国の終焉を辿る本能寺の変、関ヶ原の戦い、大坂の陣を描いた傑作短編も同時収録。

ひと言
石田 三成の子が生きながらえていたということに驚きました(勉強不足ですみません)。他にも三編の短編が収録されていますがやっぱり「津軽双花」がよかったです。歴史はやはり為政者が善であり、正義であるように描かれて後世に伝えられるものですが、大谷吉継や石田三成は、やはり義を重んじる武将であったんだろうなぁと思います。そんな武将の子を亡きものにするのは忍びないということで生きながらえたんだろうなぁ。後もうひとつ勉強になったことが、大舘御前と呼ばれた辰姫。大舘(おおたち)とは上野国(こうずけのくに、現、群馬県)です。


高台院は淡々と話を続けた。「淀殿が徳川方との戦に踏み切られたのは、家康殿を冬の戦場に留めて、いのちを削ろうと考えたゆえじゃ。家康殿はそれを察したゆえ、講和をして、暖かな駿府に逃れ、あらためて大坂攻めをするつもりであろう。そのおりには十分な手立てを施し、大坂城を落とす策を立ててくるに相違ない。大坂方が勝とうと思うなら講和に応じず、家康殿に寒気厳しい戦場で年を越させることであったろう」源吾は膝を乗り出して訊いた。「それならば、なぜ講和されたのでございますか」「帝より命じられたからじゃ」高台院はさりげなく言った。「なんと」源吾は目を瞠った。たしかに後水尾天皇より徳川方と大坂方に和睦を求める勅使が来ていた。だが、家康はいったんこれを拒んでいる。「家康殿が勅命に従わぬなら、大坂方も応じるわけにはいかなかった。だが、家康殿が和睦したいと望めば、淀殿は勅命に従うしかない。なぜなら、太閤殿下は帝への忠誠を誓われた。帝への忠誠を守るのが、豊臣の義であるからじゃ」高台院はきっぱりと言った。「豊臣家はそれほどまでに朝廷を重んじておられましたか」かつて秀頼の小姓だった源吾だが、そのころは少年だったこともあり、豊臣家にとって朝廷がどのようなものであるかを考えたこともなかった。高台院は微笑して言葉を続ける。「太閤殿下は農家に生まれたゆえ、武士からは常に嘲りを受けてこられた。どれほど出世し力を持とうとも、皆、陰では百姓あがりと蔑んだのじゃ。されど、この国で最も尊貴な帝だけは違われた。帝は太閤殿下を好まれ、ひととして遇してくだされた。太閤殿下にとってそれがどれほど
嬉しいことであったか、そばにいたわたくしはよく知っておる。太閤殿下が朝鮮に出兵されたのも、帝に明国を献上するという途方もないことを思い立ったがゆえじゃ」「さようでございましたか」源吾は思わずうなった。
(七)


「われらの父上のことでお話があった」「父上のことで?」辰姫は目を瞠った。源吾はうなずいた。高台院は源吾に穏やかな表情で話した。「世間ではそなたの父、石田三成は淀殿につき、わたくしとは仲が悪いと思っておった。それなのに三成の娘である辰姫をわたくしが養女に迎え、育てたことを不思議には思わなかったか」「正直に申せば、かねてから訝しくは思っておりました」源吾は高台院の目を見て言った。「そうであろうが、三成は佐吉と申したころより、加藤清正、福島正則らとともに、わたくしが手塩にかけて育てた。清正や正則は三成に遺恨を抱いたが、わたくしにはさような思いはなかった。だからこそ、関ヶ原の戦のおりに三成はわたくしに頼み事をいたしたのじゃ」高台院は淡々と言った。「父が何をお頼みいたしたのでございますか」首をかしげて源吾は訊いた。「わたくしの甥である小早川秀秋を東軍に寝返らせてくれ、ということであった」「まさか、そのような」源吾は目を瞠った。「世間では関ヶ原の戦を三成と家康殿の戦のように思っているが、まことは違う。徳川と毛利という豊臣家の大老同士の戦であった」言われてみれば、毛利輝元は三成の招請に応じて大坂城に入り、関ヶ原の戦場には出なかったものの、西軍の総大将だった。「三成は窮地に立っておった。東軍に勝っても、毛利輝元が大坂城に居座り、そのまま天下人になり、三成を殺したであろう。かといって家康殿が大勝してしまえば、徳川の天下となる。いかにすべきか考えた三成が選んだのは、小早川秀秋に裏切らせて負けることだった。さすれば、家康殿の大勝にはならぬと考えたのだ。しかも、家康殿ならば毛利を大坂城から追い払えると睨んだのであろう」「しかし、自ら負けるとは、信じられませぬ」源吾は頭を横に振った。「三成も辛かったであろうが、それしか手がなかったのじゃ。三成の策のおかげで毛利は大坂城から立ち退き、小早川秀秋の裏切りで関ヶ原の勝利を得た家康殿は豊臣恩顧の大名がひしめく西国に近い京、大坂で幕府を開けず、江戸にこもった。それゆえ豊臣家の大坂城は今日まで保たれたのじゃ」「それを父はすべて見通していたと言われますか」源吾は息を呑んだ。「豊臣の天下を支えた石田三成という男にはそれだけの才覚があったのじゃ。そのことを子であるそなたたちは覚えておくがよい。そして何より、わたくしの養女となった辰姫こそがわたくしと三成の間に密約があったことの証なのじゃ」
(七)


「世迷言を言うな。自ら負けるような奴がこの世におるか ――」言いかけた恵瓊ははっとして三成を見つめた。「まさか、貴様 ――」「そうだ。小早川秀秋が寝返るように、北政所様を動かしたのはわたしだ。わたしは淀の方様と親しんでいると世間では思われているが長浜城で小姓をしていたころは北政所様にお世話になったゆえ、話はできる。豊臣家のためと理を述べて話したらおわかりくだされ、秀秋に徳川につくよう命じられたのだ」三成は淡々と言ってのけた。「馬鹿な、なぜそんなことを」恵瓊は唖然として口を開けた。「関ヶ原の戦は長引けば長引くほど毛利が〈漁夫の利〉を得るだけだった。たとえ、西軍が勝ってももはや戦う力は残っておらず、毛利の前に膝を屈するしかない。それゆえ、秀秋が東軍に寝返るよう仕向けてあっさりと決着をつけたのだ。関ヶ原での勝ちは秀秋のおかげだと思えば、家康は毛利が内応していたことも有り難くは思わぬ。却って毛利の腹の内を見抜いて勢力を削ぎにかかる。天下二分など夢のまた夢だ」三成の話を恵瓊は目をぎらつかせて聞いた。「さらに、徳川にしても秀忠の本軍が来る前に、福島正則や黒田長政、細川忠興ら豊臣恩顧の武将の力で勝ったゆえ、これらの大名に恩賞を手厚くせねばならぬ。秀秋の裏切りを醜いと思った大名たちは、豊臣家をたやすくは裏切れまい。わが友の大谷吉継が武将として見事な美しき戦を
したゆえ、秀秋の醜悪さが目立つたからな。豊臣恩顧の大名がひしめく西国に家康は勢力を築けぬ。太閤にならって大坂城で天下を制しようという家康の夢も潰えたのだ」「それが狙いだったというのか」「関ヶ原の戦はわたしだけでなく、徳川も毛利も負けた。勝った者などいない戦だった」三成が笑うと、恵瓊は体を震わせ、獄舎の床に突っ伏した。「貴様は何ということを」「わたしは恵瓊殿の策に操られる一匹狼だったが、孤狼には、孤狼の戦い方があったということだ」三成は静かに言って目を閉じた。
(孤狼なり 四)