あらすじ
りり、りり、りり…… 草雲雀は恋の歌を唄う―― 媛野藩の藩士、栗屋清吾は女中のみつと深い仲になるが、妻として娶ることは周囲から認められていない。そんな折、道場仲間の山倉伊八郎から自分の用心棒になるよう頼まれる。伊八郎が藩の筆頭家老になるには清吾の剣の技が必要という。子を持ちたいというみつの願いに応えるため引き受けた清吾を、伊八郎と対立する派閥からの刺客が次々と襲う。秘太刀「磯之波」で迎え撃つが……。ひとはひとりでは生きていけませぬ―― 愛する者のため剣を抜いた男の運命は!?

ひと言
相変わらず葉室 麟さんらしい爽快な作品だが、最後は少し無理があるように思う。菅野新右衛門を打ち取り家老になる目途がついたら真っ先に伊八郎は、自分の借金の形に白木屋にいった みつのことを真っ先に考え、清吾のもとに戻るよう手配するのが当たり前であろう。参勤交代の供で国許に戻るのが遅れるとしても家臣にその手筈を整えさせることは可能であろう。清吾が一人白木屋へ乗り込んでみつを取り返すというのも面白いが無理があるように思う。草雲雀という虫を知らなかったのですぐに調べてみました。他にも知らない方がみえると思うので下に写真を載せました。




みつがはっと気づいたように立ち上がると隣室に行って、竹籠を持ってきた。「昼間、村の者が旦那様のお慰めにと持って参りました」 みつは竹籠を清吾の前に置いた。すでに鳴き声は止んでいる。「何だ、これは――」清吾は竹籠の中を覗きこんだ。竹籠の中には草が敷かれ、黒い一匹の小さな虫がいるようだ。「草雲雀(くさひばり)でございます」みつは答えながら、竹籠の中を覗きこんだ。「鳴かぬな」清吾は顔をあげてつぶやいた。みつは微笑んだ。「急に明るいところへ連れてきたので驚いたのでございましょう゜暗くすれば、ひと晩中、きれいな声で鳴いてくれます」「そうか――」清吾は立って障子を開けてから、蝋燭の明かりを消した。部屋の中は暗くなり、月の青白い光だけが差し込んだ。清吾はみつの傍らに座った。ふたりが暗い中で待ち構えていると、やがて、―― りり、りり、りり と草雲雀が澄んだ音色で鳴き出した。「とても美しい鳴き声でございます」みつが言うと、清吾は大きくうなずいた。「そうだな、胸に沁みる」 みつはかがんで竹龍を覗きこみながら、「鳴くのは雄なのだそうでございます。離れ離れの雌を恋い慕って鳴くのだと村の年よりが話しておりました」「そうか草雲雀は恋の歌を唄っておるのだな」清吾が何気なくつぶやくと、みつが嬉しげに言った。「風流な虫でございますね」清吾は虫の鳴き声を聞くにつれ、しだいにもの悲しくなってきた。出世を望まず、みつとこの世の片隅でひっそりと生きていくのが自分にはふさわしいと思っていた。
だが、それではあまりに侘しいではないかとも思う。兄が家督を継いだ実家でなすところもなく、歳月を過ごし、妻であるみつは女中同然にこき使われているのだ。  武士に生まれた矜持はどこにも見出せない。(ただ生きて、朽ちていくだけだ)それでは虫と同じではないか。秋の夜長に鳴き通しても、応じてくれる相手はおらず、虚しく、時が過ぎていくばかりだ。清吾はため息をついた。「この虫、逃がしてやろうか」清吾が言うと、みつははっとして振り向いた。「草雲雀はお気に召しませんでしたか」「いや、気に入った。美しく鳴くものだな。しかし、それだけに庭へ放ってやりたくなった」清吾が言うと、みつは竹籠へ目を遣った。「狭い竹籠に入れておくのをかわいそうだと思われたのでございますね」清吾の気持を察したように言った。「そういうことかもしれんな」みつに言われて、清吾はあらためて自分の心持ちに気づかされた。狭い籠に閉じ込められているのは、自分もみつも同じなのだ。草雲雀は鳴いて人に喜ばれるが自分たちには、それもない。ただひたすら、肩をすぼめ、小さくなって生きていくだけなのだ。「せめて草雲雀は広いところへ放ってやろう」清吾に言われて、みつは素直に竹籠を持ち、縁側へ出た。跪いたみつは竹籠を開けて庭にかざした。やがて月の光に誘われるように虫が外に飛び出した。「旦那様、草雲雀が元気に出ていきました」 みつが振り向いて言うと清吾は笑みを浮かべた。「そうか元気に跳んで出たか。それはよかった」言いながら、清吾はふと涙ぐみそうになった。自分とみつにはこの狭い虫籠から出ていく日がはたしてくるのだろうか。それとも鳴き続けて、ある日、気づいたら息が絶えているのか。そんなことを思っていると、みつは、「旦那様、わたしはここの暮らしがとても好きでございます」と慰めるように言った。清吾は仰向けになった。青白い月光が清吾の顔を照らした。「好きなはずはないだろう。日の当たらぬ場所での暮らしではないか」「女子には日が当たることより、もっと大事なことがございます」みつは縁側から夜空を眺めながら言った。
(二)

広間から出ていこうとする昇平に清吾は庭から駆け上がって、追いすがった。「花田殿、ただいまはみつをお助けくださり、まことにありがたく存じます。このご恩は忘れません」 と頭を下げた。昇平は笑って答えた。「わたしと栗屋殿とはいずれ剣をとって戦わねばならぬ身でござる。それゆえ、恩などは忘れてもらったほうがありがたい。それにわたしがお内儀を助けたのは、栗屋殿の言葉を面白いと思ったからでござる」「わたしの言葉が面白かったと言われますか」清吾が首をひねると、昇平は笑って告げた。「さよう、栗屋殿は大事な女房と言われた。武士たるものが、おのれの妻を大事であるなどと抜け抜け言うのをわたしは初めて耳にいたした。わたしの従妹の小萩が栗屋殿に魅かれたわけがわかり申した」昇平は軽く頭を下げて広間を出ようとした。昇平とすれ違うように酒器を盆にのせたみつが戻ってきた。昇平が去ろうとしているのを見て、みつは、申し訳ございませんでした、ありがとうございました、と何度も頭を下げた。昇平は微笑しただけで背を向けると玄関に向かった。清吾は大きくため息をついた。もし、昇平と立ち合うことになったとき、自分は勝てるのだろうか、と心もとない気がした。
(二十三)

伊八郎はちらりと清吾に目を遣った。「これなる栗屋清吾がわたしを助けましたのは、兄の厄介になって暮らす三男坊の境涯から抜け出し、妻との間に子を生(な)したいという、まことに草雲雀のごとく小さな望みを果たすためでございました」草雲雀のごとく小さな望みだと言われて清吾は顔をしかめた。だが、伊八郎は構わずに話を続ける。
「わたしも国東家の家督を継ぐまでは草雲雀のごとく小さい者として生きておりました。しかし、此度、家督を継ぎ、派閥を率い、家老になる身になってあらためて思い知ったのは、ひとが何事かをなすのは、大きな器量を持つゆえではなく、草雲雀のごとく小さくとも、おのれもひとも裏切らぬ誠によってだということでございます」「草雲雀のごとき誠か――」武左衛門はため息をついた。「さようにございます。されば、彦右衛門兄上は、おのれの誠を尽くして生きられたと存じます。父上が哀れと思われるのは僭越(せんえつ)でございましょう」伊八郎の言葉に武左衛門は胸を突かれたかのような顔をした。
(二十八)

清吾が囁くように言うと、みつはくすりと笑った。「子にはなんと名をつけましょう」「そうだな、ひとりで生きていけるような強い名がよいな」清吾が言うと、みつは力をこめて清吾の背にすがりついた。「いいえ、ひとはひとりでは生きていけませぬ。いとしいひとを大事に思える、深い心を持ったひとになってもらいとうございます」「そうか、ひとはひとりでは生きていけぬか」伊八郎も自分もひとりでは困難を乗り越えられなかった。そしていまの自分は背中のみつがいなければ生きていく気力さえ湧かないだろう。そう思ったとき、ひとが何事かをなすのは大きな器量によってではなく、おのれもひとも裏切らぬ誠によってだ、と伊八郎が言ったことを思い出した。みつは草雲雀を飼っていた。草雲雀は恋しい相手を思って一晩中、りり、りり、と鳴くのだという。清吾は草雲雀の鳴き声が耳の中でするのを聞いた。りり、りり、りり (わたしもみつも草雲雀だ)清吾は、みつを背負う腕に力を込めると、草雲雀の鳴き声に合わせてしっかりと夜道を歩いていった。
(三十)