あらすじ
感染症とは僕らのさまざまな関係を侵す病だ。この災いに立ち向かうために、僕らは何をするべきだったのだろう。何をしてはいけなかったのだろう。そしてこれから、何をしたらよいのだろう。コロナの時代を生きる人々へイタリアを代表する小説家が贈る、痛切で、誠実なエッセイ集。

ひと言
7月17日現在 東京都は過去最多の293人の感染者。全国では594人と、以前の緊急事態宣言で全国民が Stay home で頑張ったあの期間は何だったのか?という勢いで感染者が増加している。こんな中「Go To キャンペーン」は東京発着は対象外と条件をつけたものの予定通りの7月22日に前倒しの日程で実施。感染の予防と経済の回復という難しい舵取りを迫られるこの国は、世界はどうしていけばいいのだろう。著者が指摘しているように、市民と行政と専門家の三者が互いを愛する術を失い、関係が機能不全におちいっている。マスクや手洗い ソーシャルディスタンスに気をつけることはもちろんのことであるが、それ以外にこのコロナを終息させるために我々にできることは何なんだろう。一日も早くコロナが収束し、人々の生活に今までのような笑顔が戻ることを心より祈っています。


ひとつ大切な区別をしておきたい。SARS-CoV-2 は今回の新型ウイルスの名前で、COVID-19 は病名、つまり感染症の名前だ。
(感染症の数学)

CoV-2は――まさにSARSウイルスやヒト免疫不全ウイルス(HIV)と同じように ―― 手始めに別の種類の動物を感染させてから、その動物経由で人間を感染させたのだ。誰もがコウモリこそ犯人だとしている。SARSを人間にもたらしたのもコウモリだった。しかしCoV-2はコウモリから直接人間に感染したわけではなく、もうひとつ別の種類の動物を経由した。それはおそらくヘビではないかと言われている(感染経路については諸説あり)。この宿主の中でCoV-2のRNA(リボ核酸)は変異し、人間にとって危険なウイルスとなったのだ。そこでCoV-2は二度目の種の壁を越えた伝染をし、ひとりまたは複数の人間を感染させた。彼らこそ、今回の地球規模の物語のゼロ号患者だ。
(市場にて)

今回の流行の初期から、数字はパニックを生む原因として非難されてきた。そこで、数字は隠すか、少なめに見えるような別の数え方を見つけよう、ということになったのだろう。しかしすぐにまた、このやり方では本当にパ二ックになってしまうと気づいたに違いない。市民に対し真相を隠すとすれば、それは実状が見かけよりもずっと深刻だということだからだ。二日もすると各紙のホームページにはまた数字が表示されるようになり、それからはそのままとなっている。こうした迷走は、ある未解決の問題の存在を示唆している。それは、市民と行政と専門家のあいだの愛情のもつれだ。どうも現代においては、三者が互いを愛する術を失い、関係が機能不全におちいっているようなのだ。行政は専門家を信頼するが、僕ら市民を信じようとはしない。市民はすぐに興奮するとして、不信感を持っているからだ。専門家にしても市民をろくに信用していないため、いつもあまりに単純な説明しかせず、それが今度は僕らの不信を呼ぶ。僕たちのほうも行政には以前から不信感を抱いており、これはこの先もけっして変わらないだろう。そこで市民ぱ専門家のところに戻ろうとするが、肝心の彼らの意見がはっきりせず頼りない。結局、僕らは何を信じてよいのかわからぬまま、余計にいい加減な行動を取って、またしても信頼を失うことになる。
新型ウィルスはそんな悪循環を明るみに出した。科学が人々の日常に接近するたび、毎度のように生じる不信の悪循環だ。パニックはこの手の悪循環から発生する。発表された数字が原因ではない。
(パン神)

コロナウイルスの「過ぎたあと」、そのうち復興が始まるだろう。だから僕らは、今からもう、よく考えておくべきだ。いったい何に元どおりになってほしくないのかを。……。……。
僕は忘れたくない。頼りなくて、支離滅裂で、センセーショナルで、感情的で、いい加減な情報が、今回の流行の初期にやたらと伝播されていたことを。もしかすると、これこそ何よりも明らかな失敗と言えるかもしれない。それはけっして取るに足らぬ話ではない。感染症流行時は、明確な情報ほど重要な予防手段などないのだから。……。……。
僕は忘れたくない。今回のパンデミックのそもそもの原因が秘密の軍事実験などではなく、自然と環境に対する人間の危うい接し方、森林破壊、僕らの軽率な消費行動にこそあることを。
僕は忘れたくない。パンデミックがやってきた時、僕らの大半は技術的に準備不足で、科学に疎かったことを。
僕は忘れたくない。家族をひとつにまとめる役目において自分が英雄的でもなければ、常にどっしりと構えていることもできず、先見の明もなかったことを。必要に迫られても、誰かを元気にするどころか、自分すらろくに励ませなかったことを。
(コロナウイルスが過ぎたあとも、僕が忘れたくないこと)