あらすじ
20××年秋、京都国立博物館研究員の望月彩のもとに、マカオ博物館の学芸員、レイモンド・ウォンと名乗る男が現れた。彼に導かれ、マカオを訪れた彩が目にしたものは、「風神雷神」が描かれた西洋絵画、天正遣欧使節団の一員・原マルティノの署名が残る古文書、そしてその中に書かれた「俵…屋…宗…達」の四文字だった―。織田信長への謁見、狩野永徳との出会い、宣教師ヴァリニャーノとの旅路…。天才少年絵師・俵屋宗達が、イタリア・ルネサンスを体験する!?アートに満ちた壮大な冒険物語。
 
 
ひと言
どうにか上下巻を一緒に借りることができ週末を利用して読みました。俵屋宗達が天正遣欧使節団といっしょにローマへ行くという設定は面白いけれど、その旅行記が少し長いかな。でもサンタ マリア デッレ グラツィエ教会でのカラヴァッジョとの劇的な出会い、そしてそれに続くエピローグは、さすがマハさん 流石です。2月に読んだ葉室 麟さんの「墨龍賦」の海北友松の「雲龍図」、そしてこの原田 マハさんの「風神雷神」の「風神雷神国屏風」も建仁寺。もう行くっきゃないよね。心は早くも京都の建仁寺へ。早く行きたいなぁ。熊本に甚大な被害を出している雨がはやく止みますように!
 
「琳派の源」と称されている芸術家、本阿弥光悦は、洛北の地、鷹峯に住まい、書をはじめとするさまざまな芸術の潮流を生み出した。「アートプロデューサー」的存在だったといわれている光悦が、徳川家康より鷹峯の地を拝領してから四百年の節目となったのが二〇一五年だった。
(プロローグ)
 
(俵屋 宗達)
 
国宝〈風神雷神国屏風〉。京都最古の禅寺、建仁寺の至宝であるこの作品は、現在、京都国立博物館に寄託されている。 二曲一双、一対の屏風に仕立てられた、紙本金地着色の肉筆画である。右双に風神、左双に雷神が対になって描かれている。風神・雷神は千手観音の眷属であり、一 対として描かれた「二神」である。 十七世紀初頭、江戸時代の初期の作であると判明しているものの、正確な制作年は、宗達の生没年同様、不詳のままだ。
が、本作は、宗達の友人であり、学者で貿易商だった角倉素庵に棒げられたものではないか という説が打ち出された。宗達と交流のあった素庵の書状が発見され、それをもとに唱えられた 新説であった。  素庵は家督を長男に譲ったのち、京都の西、嵯峨野で学問に打ち込む生活に入った。肌が白く なる病気 ―― ハンセン病の一種であったらしい。  宗達が参考にしたといわれている〈北野天神縁起絵巻〉では、雷神は赤で描かれている。しかし、宗達の雷神は白い肌をしている。いったいなぜなのか、この謎が長いあいだ研究者たちを悩ませてきた。  雷神のモデルは素庵であった――となれば、なぜ肌が白いのか、という理由になる。  しかも、古来、中国の思想では、白は西を、青は東を示している。西に往んでいた素庵を象徴する白で雷神が描かれたというのも符合する。彩もまた、この作品を研究するうちに、「なぜ雷神が白いのか」という謎をどうしても解けずにいたのだが、この新説が打ち出されたとき、それもありうると感じた。 と同時に、ずっと謎のヴェールの向こう側にいた宗達が、ふいにひとりの人間として現れた気がした。  病気で隠遁した友を思いやる、人間味あふれる人物だったのではないか。白い肌を病の徴(しるし)とせず、血の通う肌を持つ生き生きとした姿の雷神として描くことによって、友を励ましたのではないか。 そう思うと、この絵の見え方がまったく変わってきたのだった。
(プロローグ)
 
「この〈風神雷神図屏風〉に憧れて、のちに宗達に私淑した尾形光琳と光琳に私淑した酒井抱一は、それぞれに師の作品を模写しました。……。……。
 
(尾形 光琳)
 
 「作品の画面全体を見ていただきたいのですが……風神も雷神も、それぞれに動きがありますね。スピード感にあふれている。風神は、こう、右側から風とともにやって来て、雷神は、こう、左上から雷光とともに降りてきた。まさに、空中に浮かんだ二神がいま、ここで出会った。そんなふうに見えませんか。……なぜこんなにも動きと奥行きがあるように見えるのかというと、風神も雷神も、ちょっと端が切れているんですね」
面面の中の風神は、風をはらんでふくらんだ袋と体に巻きついてはためいている紐が右端で切れている。雷神のほうは、天鼓(てんこ)の上端がやっぱり切れている。この「端を切る」手法こそ、本作を個性的に、より魅力的にしているのである。……。……。
「なぜ絵が切れているのでしょうか。もちろん、紙が足りなかったわけではなく、宗達は意図的にそうしているんです。
わざと絵のすべてを面面に収めないことによって、画面の四方に空間が広がっているということを暗示している。全部描かない、ということは、つまり、この画面の周りに無限の広がりがある、ということを表しているんです」。尾形光琳や酒井抱一が模写した〈風神雷神図屏風〉は、宗達が試みた「わざと切れている」部分を、律儀にきっちりと描き込んでいる。
 
(酒井 抱一)
 
絵というのは画面にすべてを収めるものなのだ、と思い込んでいたのか、お手本にない部分も描いてみたいと思ったのか。真意はわからないが、みっつ並べて見たときに、ほんのちょっと端を切ってある宗達の画面構成が、いかに卓越しているかがありありとわかった。
(プロローグ)

「これも一緒に入れてくれへんか」 背後で声がした。振り向くと、宗達が四角い布包みを小脇に抱えて佇んでいた。 「わいの荷物は、たまりにたまった帳面でいっぱいになってしもうたんや」 苦笑して、布包みを差し出した。 マルティノは、四角い布包みを宗達から受け取って、日記の上にそっと載せた。 〈ユピテルとアイオロス〉。カラヴァッジョからふたりへ贈られた一枚の絵。 この絵を日本へ、都へ、一緒に連れていこう。 宗達はマルティノにそう言った。そして、織田信長に献上しよう――と。―― かくも見事な絵師がイタリアにおりまする。 みつめるだけでただただ涙が込み上げるほど、すばらしい絵を描く少年が。 いつの日か、私たちは、再び彼にまみえることがあるやもしれませぬ。 彼が幸福ならば、それでよし。会いにいく必要はありますまい。 されど、もしも彼が窮地に立たされるようなことがあれば、必ずや救いに参りましょう。 さよう、いかに遠くとも。 何ゆえに? とお尋ねになられるでしょうか。 否、たいしたわけはござりませぬ。 私たちは、彼の友。ただそれだけでござります。
(第四章)
 
使節がミラノを訪れたのは一五八五年、九日間の滞在だった。とすれば、原マルティノとカラヴァッジョは「九日間だけ」同じ街にいたのだ。 その史実を知ったとき、彩の中に突風が吹き込み、稲妻が全身を駆け抜けた。 それは、歴史が生んだ「偶然」である。 が、その史実に、彩は感謝したい気持ちになった。 宗達が織田信長の前で作画を披露した史実はどこにもない。ましてや、信長の意向を受けて、 使節とともにローマヘ旅した ―― などということは、研究者が聞けば一笑に付される「夢物語」 である。 けれど――。 それでいいではないか。  史実では、帰国したマルティノたち使節を待ち受けていたのは、過酷な運命だった。  彼らの渡欧中に、織田信長は暗殺され、豊臣秀吉の天下となっていた。キリスト教徒はしだいに圧迫され、江戸時代を迎えてのち、禁教となる。 使節たちは、棄教する者、殉教する者、それぞれだった。司祭となったマルティノは日本を脱出し、マカオヘ移住。ふたたび帰国することなく、この地で没した。 歴史は、ときに残酷である。起こってしまった出来事を、なかったことには決してできない。しかし、だからこそ、人は歴史に学び、先人たちが遺してくれたさまざまな智慧を現在に活かすことができるのだ。美術(アート)は、歴史という大河が過去から現在へと運んでくれたタイムカプセルのようなものだ――。すぐれた美術品に出会ったとき、彩はそう思うことがある。 はるかな昔、この世界のどこかで誰かが描いたひとつの絵。 長いながい時間の中で、その絵は、ひょっとすると戦禍に巻き込まれたかもしれない。火災や 水害に遭ったかもしれない。破損や略奪の危機にさらされたかもしれない。  ある時代には価値を認められずに、捨て去られてしまったかもしれない。 ちょっとしたことでこの世界から永遠に姿を消してしまった可能性は、いつであれ、あったは ずだ。 けれど、いま。 目の前に、ひとつの絵がある。  それは、いつの時代にも、その絵を愛し、守り、伝えようとした人がいた証にほかならない。 人から人へ、時代から時代へと継承されてきたからこそ、その絵は、いま、自分たちの目の前に あるのだ。
(エピローグ)