あらすじ
九州豊前の小藩、小竹藩の勘定奉行・澤井家の志桜里は近習の船曳栄之進に嫁いで三年、子供が出来ず、実家に戻されている。近頃、藩士の不審死が続いていた。現藩主の小竹頼近は養子として迎えられていたが、藩主と家老三家の間に藩政の主導権争いの暗闘が火を噴きつつあった。藩主が襲われた時、命を救った木暮半五郎が志桜里の隣家に越してきた。剣を紐で縛り“抜かずの半五郎”と呼ばれてきた男が剣を抜く時! 小藩の藩政を巡る攻防と志桜里の思い。
 
ひと言
じれったいほど不器用で実直な侍を描いた、これぞ葉室 麟というような作品で、読みやすくある程度結末は予想できるのですが、読者を引き込んで読ませるあたりはさすが葉室 麟というような作品でした。
 
 
志桜里は辛夷の枝を床の間の花瓶にそっと挿した。妹たちには言わなかっ たが、辛夷の枝には、
時しあれば こぶしの花も ひらきけり 君がにぎれる 手のかかれかし
という和歌が書かれた短冊が添えられていた。
時がいたれば、蕾のころは、ひとのにぎりこぶしのような形をしていた辛夷の花も開く、あなたの握った手も開いて欲しい、とはかたくなになって閉じている心を開いて欲しい、という 意だろう。 床の間の花瓶に活けられた辛夷の花は清楚で美しかった。志桜里は半五郎がなぜ辛夷の花に和歌を添えたのだろうと考えていて、ふと、これはすみの心を開かせたいという思いを託した のかもしれない、と思った。 すみの父親は半五郎に斬られたという。そのとき、どれほど無理からぬ事情があったにしても目の前で父親を殺されたすみが心を閉ざしてしまうのは当然のことだろう。 半五郎としては何とかすみの心を開かせたいと思うかもしれないが、たやすいことではないと思える。 「半五郎様は勝手なことをおっしゃる」 志桜里は辛夷を見つめながらつぶやいた。すると、この辛夷の花に託されたのは、すみだけでなく志桜里の心も開いて欲しいとの願いかもしれない、という考えが浮かんだ。 半五郎がそれほどまでに志桜里のことを考えるはずもない、と思っていったんは打ち消そうとした。 だが、胸の裡に湧いた思いは消えず、船曳家から離縁されて以来、かたくなになっている自分の心に思い当たった。……。
それを半五郎の思い遣りだと感謝する心持ちはあったが、口にすれば志桜里なりの矜持が失われる気がして胸に秘めていた。
(六)

「おのれの生き方はおのれの心が決めるものです。ひとが求めているからとひとの心で決めては悔いが残ります。不義理も不人情もおのが心を偽らぬためにはやむを得ぬかと存じます」 きっぱりとした半五郎の口調に志桜里は胸の裡がすっとする思いだった。
(八)
 
新太郎は大きく息を吸い込んでから答えた。 「はい、ひとは自らの心に従い、行くべき道を切り開かねばならないのではないでしょうか。 定められた道がまことの道だとは限らないとわたしは思います」 志桜里は、この間まで幼かった弟がいつの間にこんなにしっかりしたことを言うようになったのだろう、と驚いた。
(十二)

「あの紐をまだ持っていてくださいましたか」 半五郎の声が震えた。 「母上様、丹精の紐でございます。わたくしが仕残したことというのは、この紐をもう一度、結んで差し上げることでございました」 「今一度、〈 抜かずの半五郎 〉に戻れと言われますか」 目を瞠って半五郎は訊いた。「此度のお働きで家中の方々は木暮様を見直されたことと存じます。されど、わたくしはひとを殺めたゆえに恐れられる木暮様よりも、ひとに侮(あなど)られても決して刀を抜かぬ木暮様 の方が好きでございます」 志桜里に好きとあからさまに言われて、半五郎はさらに顔を赤くした。
(二十九)