あらすじ
本書は故・葉室麟が最期に書きたかった「近代」に挑んだ作品。「これだけは書いておきたい」と願い、病と闘いながら書き続けた物語である。明治新政府で外務大臣として欧米列強と対峙し、不平等条約の改正に尽力した陸奥宗光。日本の尊厳を賭けて強国に挑んだ陸奥の気概は、どこで育まれたものなのだろう。陸奥が生まれたのは幕末の紀州。坂本龍馬に愛され、海援隊で頭角を現し、明治新政府では県知事などを務めたが、政府転覆を企てたとして投獄されてしまう。そんな不遇の時代を経て、伊藤博文内閣のもとで外交官として、その才能を花開かせる。外務大臣となった陸奥は、日本を欧米に伍する国家にすべく奔走するのだが……。本書は残念ながら未完。しかしながら葉室麟の溢れる想いが感じ取れる貴重な作品でもある。
連載中の葉室 麟の想いは長女の涼子氏が紹介。坂本龍馬の姉を描いた短篇「乙女がゆく」を特別収録。

ひと言
葉室 麟さん最後の作品であり未完の作品。淡々と陸奥 宗光の生きざまを描いただけのような作品のような気がして、いつもの葉室 麟さんらしくないように思えました。でも、それほど病が重篤だったんだ、それでも書きたい残したいという葉室 麟さんの執念のようなものが伝わってきて、そのことに逆に感動しました。最後の娘さん葉室涼子さんの「刊行に寄せて」もよかったし、特別収録の龍馬の姉 乙女が薩長同盟が結ばれる一助になったことや、寺田屋事件にも居合わせたという設定もおもしろかったです。最後になりましたが 葉室 麟さんのご冥福を心よりお祈りいたします。(合掌)
 
陸奥が認めた書状は長州閥の領袖(りょうしゅう)である水戸孝允にあてた意見書で、この書状を陸奥は、―― 日本人 と題した。その文章は、日本人とは何かから始まる。
―― 日本人とは、西は薩摩の絶地より、東は奥蝦夷までの間に生育して、凡そ此帝国政府の下に支配せらるる者皆此称あり。既に此称あれば、各人其尊卑、賢愚、貧富、強弱に拘らず、皆此国に対する義務あり、権利あり  すなわち、明治になって初めて日本人は生まれたと陸奥は思っていた。これまでは、それぞれの藩に住む者たちの集まりが、日本人であったが、いまや誰もが日本人として平等であり、国家に対して、―― 義務あり、権利あり と陸奥は主張している。なぜ、あえてそう主張しなければならないかと言えば、明治政府は、藩閥政府になりはてているからだ。これに対して陸奥は、 「日本は日本人の日本である。薩長の日本ではない」と声を高くして言いたいのだ。このことはかつて出身藩にとらわれない海援隊を率い、―― 日本を洗濯したく候 と唱えた坂本龍馬の理想とするところでもあった。龍馬は土佐藩で身分の低い郷士だったから、藩の枠にとらわれなかった。 一方、陸奥は徳川御三家の紀州藩の名門の出だけに、たとえ倒幕、維新に功があったにしても、旧藩の出身を言い立てる者たちの田舎者ぶりが片腹痛いということもあった。……。……。
すなわち、陸奥の目から見た征韓論争は、岩倉遣欧使節団で海外をまわってきた岩倉、大久保、木戸と留守政府の西郷たちの政治の主導権争いでもあった。
(七)
 
これらの賛成意見に対して勝海舟は、日清戦争について、 ―― 日本の大間違いの戦いである。こういう余計な戦争をして突っ込んでいくと、かえって 朝鮮半島が他の国の餌食になる と猛反対した。勝に言わせれば、朝鮮と清国は日本が商売をしていくうえでの大切なお客ではないか、そのお客に戦争を仕掛けてどうするというものだった。 このころ、陸奥は外務省を訪れた勝と廊下ですれ違った。和服でステッキを突き、白髪となった勝はもともと小柄だったが、さらに小さくなったように見えた。それでも眼光は鋭かった。 勝はすれ違いざまに、 「オイ、陸奥の旦那 ―― 」 とからかうような声をかけてきた。陸奥は立ちどまって振り向き、「勝先生、何でしょうか」 と訊いた。 勝はにやにやと笑った。 「なにね、おいらは外交の要諦は戦によらずして国家の利益を守ることにあると思っている。そこらのことは、戦好きと言われた西郷南洲もよく心得ていたよ。だから江戸を火の海にする意気込みで乗り込みながら、おいらが腹を割って話せば江戸城の無血開城ができたっていう寸法さ。ところが、お前さんは国の外交を預かりながら、端から清国と戦を構えるつもりだったようだ。どんな算盤なのかと思ってね」
陸奥は勝の鋭い視線を受けながらもたじろがず、 「日清の戦の眼目は不平等条約の改正にあります」 「ほう、武力を示して外国に認められようってことかい」 さようです、とうなずいた陸奥は、廊下に人がいないことを確かめてから、「不平等条約の改正はまずイギリスと行わねばうまくいきません。そしてイギリスはおのれの利がなければ動きません。わが国がイギリスに与えることができる利は、イギリスが最も警戒しているロシアの南下を防ぐ盾となることです。そのための朝鮮への進出です」 と声を低めて言った。 勝は眉をひそめた。 「なるほど、さすがに剃刀(かみそり)陸奥だ。切れるねえ。しかし、それは権謀に過ぎやしないかね。戦争では、朝鮮の無辜の民まで巻き込まれて死ぬことになるぜ。お前さん、そんな民にも、日本の不平等条約改正のためだ、我慢しろって言うのかい」 じろりと勝は陸奥を睨んだ。陸奥は厳しい表情になって、 「勝先生、西洋ではそのようにして国を大きくしてきたことはよくご存じでございましょう」 「そのことだよ。まわりが山賊や海賊だらけだから、自分も盗人の仲間入りをしようっていうんじゃ、あんまり情けないじゃねえか。おいらはたとえ貧乏でもまっとうな世渡りをしたいと思っているぜ」 陸奥はため息をついた。
「いまの世界でまともな世渡りをするためには力がいるのです」 「まっとうに生きるために盗人になるかい。妙な理屈だが、まあいいや。とまれ、戦についちゃ、お上(天皇)も随分とご心配なさってる。始まった戦をうまく収めるのが外交の腕ってもんだ。ぬかりなくやるこったね」 勝は言い捨てると、さっと背を向けて歩き出した。数歩進んで、振り返らずに勝は、 「お前さんはひとつの道しかないと思い込み過ぎるようだ。龍馬なら目指すいただきはひとつでも登る道はいくつもあるぜよ、と言うだろうぜ」 とつぶやいた。 陸奥は一瞬、龍馬の声を聞いたような気がした。
(十六)