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あらすじ
天領の豊後日田、私塾・咸宜園の塾主である広瀬旭荘は二度目の妻・松子を迎えた。剛直で激情にかられ、暴力をふるうこともある旭荘。だが、心優しき詩人である彼の本質を松子は理解し、支え続けた。しかし、江戸で松子は病魔に倒れる。時は大塩平八郎の決起など、各地が騒然としている激動期。儒者として漢詩人として、そして夫としてどう生きるべきか。旭荘は逡巡し、ある決断を下す。江戸末期、時代の奔流に生きた至高の夫婦愛。

 

ひと言
読み終えてすぐウィキペディア等で調べてみました。「咸宜」(かんぎ)とは『詩経』から取られた言葉で、「ことごとくよろし」の意味であることや、高村光太郎の『智恵子抄』のように、亡き妻をしのぶ文学は数多いが、広瀬旭荘(きょくそう)の松子の看病記録『追思録』もそんな一冊であるとのことでした。
残り3頁でわかるこの本のタイトルである「雨と詩人と落花と」。もうこれ以外のタイトルはありえないだろうと思うほどの、涙、涙の素敵な一冊でした。葉室 麟さんいつも素敵な本をありがとう。
それにしても 葉室 麟さん 逝くのが早すぎましたね。もっともっと多くの素敵な作品を読みたかったのに残念でなりません。ちょうど1年前の 2018年8月17日、都内で葉室 麟さんのお別れの会が催され、そのとき同郷の東山 彰良さんの「葉室さんは作品に自身の美学や哲学を込めていた。それはどんなにぶざまでも、どんなに理解されなくても、正しいことは美しいのだという美学。その美しさがきっと、誰かを救うという信念の下に小説を書いていた」という言葉が印象的でした。心よりご冥福をお祈りいたします。
『追思録』は大谷篤蔵著『芭蕉晩年の孤愁』(角川学芸出版)中の論文「広瀬旭荘の『追思録』」が読みやすいとのことなのでまた借りて読んでみたいと思います。

 

 

「ひとは親から子へ同じことを伝え、打ち寄せる波のように同じことを繰り返して生きていくことが幸せというものかもしれぬ」 旭荘は起き上がってしみじみと言った。「今日という日が明日も来ることほどの幸せはないかもしれません」 松子はヨミの顔をいとおしげにのぞきこみながら言った。
(四)

 

 

「退路を断って江戸に出たというわけだ。旭荘らしいやり方だな」 淡窓は感心したように言って、茶をすすった。「さようには存じますが、世間はそのような旦那様の気質をわかってくれるでしょうか」 松子に問われて淡窓は頭を振った。 「わかるまいな」 「それでは旦那様がおかわいそうでございます」 淡窓は微笑した。 「憐潤の情を抱いてくれるひとは少ないがゆえにありがたいのだ。この世に生まれてきた者は大なり小なり、おのれをわかってくれぬ場所で苦労せねばならぬものだ。そのことで世の中を変えようと思えば、まず自分が変わらねばならぬことを知るのだ。それもまた学問というものだろう」
(十七)

 

 

「さように思うことはいりません。わたくしは諸国をめぐって様々なひとに会ってきましたが、その中で感じたのはたったひとつのことでした」 「たったひとつのこと?」 松子は問いかける目をした。 「さよう、ひとはひとによって生かされているということ、そしてひとを生かすのは女だということです」 「女はひとを生かすのでしょうか?」 松子は采蘋に真剣な眼差しを向けた。 采蘋はうなずく。 「女が子を産むからだけではありません。わたしは誰にも嫁さず、子をなしませんでした。それでも女としての役目は果たしたと思っています。それは出会ったひとをいとしく思い、慈しんだからです」 「ひとを慈しむ――」 「ひとは誰かに慈しんでもらえなければ生きていくことができません。たとえ、血がつながらずとも、誰かに慈しんでもらえば生きていけるのです」 「そういうものなのでしょうか。わたくしは学問もなく、旦那様の何の手助けもできなかったと悔やんでおりました」 松子は呆然としてつぶやいた。 「そんなことはありません。奥方様は旭荘殿が生きる手助けをしてこられたのです。それに勝ることはありますまい」 「まことに、そうなのでしょうか」松子の頬に涙が伝った。采蘋は静かに目を開いて詠じた。

 

 

独り幽谷の裏に生じ 豈世人(あにせじん)の知るを願はんや 時に清風の至る有らば 芬芳自(ふんぽうおのずか)ら待(じ)し難し

 

 

「広瀬淡窓先生の蘭という詩です。山奥に咲く蘭はひとに知られることを願うわけではありません。ただ風が吹くとき、はなやかな香を発するばかりです。蘭の香をかぎたければ、山奥に行くしかありません。蘭はただ咲くのみでいいのです」 采蘋はそう言うと、旭荘に顔を向けた。 「奥方様はこれまで懸命に旭荘殿に尽くしてこられた方だとお見受けしました。今度は旭荘殿が奥方様に尽くす番であろうかと思います」
 采蘋の言葉を旭荘は鞭打たれるような思いで聞いて、思わずうなだれた。すると、采蘋は笑った。
「旭荘殿は昔と少しも変わられない。おやさしいが、おのれのやさしさをどのように見せたらいいのかわからず、立ち尽くすばかりです」 旭荘は顔を上げた。「いかにもそうだと思います。どうしたらいいのでしょうか」 采蘋は微笑して答えた。 「自分のことを考えるのを止め、奥方様のことだけをお考えなさい。これまで奥方様はそうしてこられたのですから」 采蘋は松子の手を握り、励ました後、去っていった。
(二十一)

 

 

松子はふと、旭荘に言った。 「旦那様、詩を聞かせてくださいまし」 「詩といっても、どのような詩だ」 「あの桃の花がいっぱいに咲いているあたりに君の家がある。夕暮れ時に門を敲(たた)いて訪ねてくるのは誰だろうという詩でございます」「わかった。松子のために吟じよう」 旭荘は低いがよく通る声で詩を口にした。

 

 

菘圃葱畦(しゅうほそうけい) 路を取ること斜に 桃花多き処是れ君が家 晩来何者ぞ門を敲き至るは
雨と詩人と落花となり

 

 

旭荘の詩、七言絶句「春雨到筆庵」だった。(この詩を作ったのはいつであったか) 旭荘は思い出そうとした。挑が咲く家とは、と考えたとき、旭荘は脳裏に桃の花と家の光景がよみがえった。あの日、旭荘は淡窓にともなわれて、筑後の松子の実家を訪ねたのだ。 途中、小雨が降り出したが、春の暖かさの中ではさほど気にならなかった。 すでに夕刻になっていた。 桃の花が夕闇に浮かび上がっていた。 「訪(おとな)いを告げよ」 淡窓に言われて、旭荘は門を叩いた。旭荘の訪いを告げる声に応じて、門を開けたのは、まだ娘の松子だった。 旭荘は夕闇の中で出会った松子を挑の精のようだと思った。旭荘を見てびっくりしたような顔をした松子は、 「風の音かと思いました」 と明るく言った。 「いや、戸を叩いたのはわたしです。それとも――」 旭荘は足もとに落ちた挑の花に目を遣った。松子は桃の花をそっとひろい上げて微笑んだ。 「あの時、わたしたちは出会ったのだ」 旭荘は松子に言葉をかけた。しかし、返事がなかった。旭荘はそっと手をのばして松子の手を握った。しかし、松子は握り返してはこない。――松子 旭荘は慟哭した。
弘化元年(一八四四)十二月十日、松子は逝った。享年二十九。
(二十七)