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あらすじ
中学一年生のこころは、ある出来事を機に学校へ行けなくなり、いつも家で過ごしている。ある日一人で家にいると、部屋の鏡が突然輝き始め、潜り抜けてみると、そこは城の中だった。集められたのはこころを含め、似た境遇にいるらしき中学生が七人。九時から十七時まで滞在が許されるその城で、彼らにはひとつの課題が出される。猶予は一年。戸惑いながらも七人は、少しずつ心を通い合わせていくのだが……。

 

ひと言
辻村 深月さんの本だし、Amazonのカスタマーレビューでも評価が高かったので借りました。最初は、鏡のお城での様々な体験を経て精神的に強くなったこころが元の学校生活に戻っていく「ネバーエンディング ストーリー」のような小説だと思って読み始めたのですが、よく練られた設定と構成で後半の展開はいい意味で見事に予想を裏切ってくれて、少し頭を整理して読み直さなければならないほどの感動のラストでした。全部を読み終えた後で喜多嶋先生やリオンが出てくる個所を読み返してみると辻村 深月さんの緻密な伏線に納得。これは本屋大賞にノミネートされる作品だと思いました。

 

 

遠くを見る目をしていたお母さんに向けて、言う。「お母さん」「ん?」「―― ありがとう」 お母さんがぽかんとしたように、唇を開いた。こころを見つめる。こころはどうしても伝えたかった。 「先生に、あんなふうに言ってくれて。私がどう言ってたか、伝えてくれて」 本当は、お母さんの言葉だけで伝わるかどうか心配で、お母さんが先生に最後に言った通り、自分の口で伝えたかった。――ああ、先生の中でのこころの心証はた、ぶん今頃散々だろう。真田美織は会うって言っているのに、それを拒むこころは、きっと先生が思う素直さや健全さに欠けた、問題ありの生徒だ。 だけど。 「お母さん、私が言うことの方を信じてくれたから……」 「当たり前じゃない」 お母さんが言った。声の語尾が微かに掠(かす)れ、お母さん、が俯いた。繰り返す、「当たり前だよ」の声は、もう完全に震えていた。こころは微かに驚き、目をぱちぱちさせる。大人が「怖い」なんて言葉を使うとは思わなかった。お母さんが目を少しまた伏せる。「自分がこころの立場でも怖かったと恩う。本当はもっと早く話してほしかったけど、さっき、先生に言う時に、こころの気持ちが少しわかった気がしたの」 こころが黙ったままお母さんを見ると、お母さんが微かに笑った。疲れたような力ない微笑みだった。 「先生に、『こころは悪くない』って言う時、その通りだと思ってるのに、それでも、信じてもらえるかどうかわからなくて怖かった。こころが怖かった気持ちが全部正確に伝わらないんじゃないか、わかってもらえないんじゃないかって思ったら、話すのに、勇気がいったよ」 お母さんが手を伸ばし、テーブルの上にあったこころの手を両手でぎゅっと握った。そして、聞いた。
「――学校、かわりたい?」 カワリタイ、という言葉の意味が、最初、すぐには入ってこなかった。握られたお母さんの少しひんやりした手の感触とともに、少しして、転校したいかどうかという意味なのだと理解する。こころは目を見開いた。 これまで、自分でも考えたことがあった。とても魅力的な考えに思えることもあれば、それは逃げることと一緒なんじゃないかと後ろ向きに思えたこともあった。小学校からの仲良しの子たちもいる、あの雪科第五中。真田美織なんかのために自分が出ていくことが癪だった。あの子たちがそうなっても反省なんかせず、むしろどこか誇らしげに、「うちらのせいで出ていったね」と笑い合うところが見て来たように思い浮かんで、怒りと聡ずかしさで吐きそうになったこともあった。けれどそれは、これまでは、現実味がまったくない選択肢だと思っていた。希望しても、お母さんが許してくれない、とそう思っていた。 しかし今、そのお母さんが続ける。 「もしこころが転校したいなら、お母さん、調べてみるよ。少し遠くなるけど、隣の学区の中学や、私立の中学校に通えるところがあるかどうか、一緒に探そう」 新しい場所に行っても自分はダメなんじゃないか、という不安は、まだ強い。またこんなことが起こるとは思わないけれど、転入生はどうしたって目立つし、こころが前の中学から逃げてきたことだって、新しいクラスメートたちにはすぐにわかってしまうかもしれない。 だけど、新しい学校で、普通の子みたいに溶け込める可能性だってある。何もなかったように通うことが、本当にできるかもしれない。それはとても甘美な可能性だった。何より、お母さんに認められたような気がして、心の内側が柔らかく、あたたかくなる。この子はどこにも通えない子じゃないと、わかってもらえた気がした。 
カレオの頭上で、ジングルペルの曲が鳴り響いている。クリスマスセールのお知らせを明るい声が放送している。 「……ちょっと考えてもいい?」 こころは聞いた。胸によぎるのは、城の、みんなのことだった。 転校はとても魅力的な考えだけど、それは同時に『雪科第五中の生徒』であることを失うことでもある。――城に行ける資格を、失ってしまうかもしれない。みんなにもう会えなくなるかもしれない。それだけは絶対に嫌だと思った。 「いいよ」とお母さんが答える。「一緒に考えよう」
(十二月)

 

 

「こころちゃん」 喜多嶋先生が言う。泣き止んだこころに、とても優しく。「闘わなくても、いいよ」と。 タタカワナクテモイイ ―― 、という言葉が、初めて聞く外国の言葉のように聞こえた。 前に、喜多嶋先生に「闘ってる」と言われた時、嬉しかった。けれど、その時以上の、想像してもみないほど柔らかい響きを伴った言葉に聞こえた。 先生を無言で見つめ返す。先生が言った。「こころちゃんが頑張ってるの、お母さんも、私も、わかってる。闘わないで、自分がしたいことだけ考えてみて。もう闘わなくてもいいよ」 その声を聞いた瞬間、こころは目を閉じた。目を閉じたまま、どう答えたらいいかわからなくて、ただ、一度だけ頷いた。 自分がしたいことだけ、と言われても、こころは自分が何をしたいのかわからない。 けれど、闘わなくてもいい、なんて考えがあることそのものに全身を包み込まれるほどの安堵を感じた。
(一月)