あらすじ
ねがはくは花のしたにて春死なむ そのきさらぎの望月の頃――23歳で出家し、1190年2月73歳で寂すまで平安末期の動乱の世を生きた西行。その漂泊の足跡を実地にたどりつつ、歌の読み込みに重点を置き、ゆかりの風物風土の中で味わうことによって自ずと浮かび上がってくる西行の人間的真実。待賢門院への思いなど、謎に満ち、伝説化された歌聖の姿に迫り、新たな西行像を追求する。
ねがはくは花のしたにて春死なむ そのきさらぎの望月の頃――23歳で出家し、1190年2月73歳で寂すまで平安末期の動乱の世を生きた西行。その漂泊の足跡を実地にたどりつつ、歌の読み込みに重点を置き、ゆかりの風物風土の中で味わうことによって自ずと浮かび上がってくる西行の人間的真実。待賢門院への思いなど、謎に満ち、伝説化された歌聖の姿に迫り、新たな西行像を追求する。
ひと言
この前読んだ森見 登美彦さんの「夜行」に出てきた西行の「春風の 花を散らすと……」に触れてからというもの、最近は寝ても西行、覚めても西行の生活です。
2012年 低視聴率が話題になったNHKの大河ドラマ『平清盛』のDVD(全13巻もあって、現時点で8巻目 第30話 平家納経まで観ました。この「平清盛」歴史に忠実で、わかりやすいし、泣かせどころもいっぱい。中井貴一さん演じる平 忠盛がすごくいいです!おすすめです)を借りて、寝る時間を削ってずって観ています。話題のこの本も借りて付箋だらけで読みました。たくさんの歌が引用されていましたが、特に心に残った歌を4首。
この前読んだ森見 登美彦さんの「夜行」に出てきた西行の「春風の 花を散らすと……」に触れてからというもの、最近は寝ても西行、覚めても西行の生活です。
2012年 低視聴率が話題になったNHKの大河ドラマ『平清盛』のDVD(全13巻もあって、現時点で8巻目 第30話 平家納経まで観ました。この「平清盛」歴史に忠実で、わかりやすいし、泣かせどころもいっぱい。中井貴一さん演じる平 忠盛がすごくいいです!おすすめです)を借りて、寝る時間を削ってずって観ています。話題のこの本も借りて付箋だらけで読みました。たくさんの歌が引用されていましたが、特に心に残った歌を4首。
春風の花を散らすと見る夢は さめても胸のさわぐなりけり
身を捨つる人はまことに捨つるかは 捨てぬ人こそ捨つるなりけれ
ねがはくは花のしたにて春死なん そのきさらぎの望月の頃
風になびく富士の煙の空に消えて ゆくへも知らぬわが思ひかな
前章で私は、「春風の花を散らすと見る夢はさめても胸のさわぐなりけり」の歌が好きだといった。その時私は、在原業平も、西行におとらず桜を愛したことを、心の中で思っていたのである。
世の中に絶えて桜のなかりせば
春の心はのどけからまし
春の心はのどけからまし
これは古今集にある業平の歌で、桜の花を謳歌した王朝時代に、もしこの世の中に桜というものがなかったならば、春の心はどんなにかのどかであっただろうに、と嘆息したのである。むろん桜を愛するあまりの逆説であるが、西行がこの歌を知らなかった筈はなく、同じようにはらはらする気持を、「夢中落花」の歌で表現したのではなかったか。そこには長調と短調の違いがあるだけで、根本的な発想には大変よく似たものがあると思う。
(花の寺)
(花の寺)
崇徳天皇が、白河法皇と待賢門院璋子の間に生れた不義の子であったことは、周知の事実であり、父親の鳥羽上皇は、「叔父子」と呼んでおられた。このことは前にも記したが、祖父の胤子であるから叔父に当り、名目上は子でもあるという意味である。表向きは平穏でも、こうした親子の間柄ほど複雑で、陰湿なものはない。白河法皇が崩御になると、前関白太政大臣忠実の娘が後宮に入って、皇后に冊立され、ついで美福門院得子が、鳥羽上皇の寵愛を一身に集めるようになる。だからといって、待賢門院がないがしろにされたわけではないが、真綿で首をしめられるように、徐々に衰退の一途を辿る。それが表面に現れたのは、得子の産んだ体仁親王(後の近衛天皇)を皇太子に立て、崇徳天皇に譲位をせまられた時のことであった。その時天皇は二十三歳で、体仁親王を養子にしていられた。させられていた、というべきかも知れない。それは得子の身分が低いので箔をつけるためであったが、親王はわずか三歳で即位し、譲位の宣命には、「皇太子」ではなく、「皇太弟」と記されていた。これはきわめて重要なことで、皇太弟では、退位後に上皇は院政を執ることができないだけでなく、子孫を皇位につける望みもあやしくなる。『愚管抄』には、「コハイカニト又崇徳院ノ御意趣ニコモリケリ」と、鳥羽上皇に恨みを抱かれたことが記してあるが、実際には摂政忠通の策謀によるものであったらしい。……。……。
どちらかといえば、一本気で、融通のきかない忠実・頼長父子と、天才的な策士である忠通との二派にわかれた摂関家の内紛が、皇室の内部にまで影響を及ぼし、保元の乱の要因となったことは疑えない。
どちらかといえば、一本気で、融通のきかない忠実・頼長父子と、天才的な策士である忠通との二派にわかれた摂関家の内紛が、皇室の内部にまで影響を及ぼし、保元の乱の要因となったことは疑えない。
瀬をはやみ岩にせかるる滝川の
われても末にあはむとぞおもふ
われても末にあはむとぞおもふ
百人一首で有名な崇徳院の御製である。永治元年(1141)譲位して間もなくの作とかで、『詞花和歌集』では「恋 題不知」となっており、「谷川」が百人一首では「滝川」に変っている。一応はげしい恋の歌には違いないが、岩にせきとめられて、二つに分れた急流が、やがては一つになって逢うことができるであろうという信念は、崇徳院の皇統が、いつかは日の目を見ることを切に願っていられたことを暗示している。
そのころから母后の待賢門院も落胆のあまり出家して、病がちとなり、四年目の久安元年(1145)崩御になった。女院に、罪の意識はあまりなかったと思われるが、法金剛院での寂しい生活の中では、時に因果応報ということを考えずにはいられなかったであろう。ともあれ、肉親同志が戦う地獄図を見る前に亡くなられたことは、せめてもの倖せであった。
(讃岐の院)
そのころから母后の待賢門院も落胆のあまり出家して、病がちとなり、四年目の久安元年(1145)崩御になった。女院に、罪の意識はあまりなかったと思われるが、法金剛院での寂しい生活の中では、時に因果応報ということを考えずにはいられなかったであろう。ともあれ、肉親同志が戦う地獄図を見る前に亡くなられたことは、せめてもの倖せであった。
(讃岐の院)
それは文治五年秋のことで、翌建久元年(1190)二月十六日、西行は弘川寺において七十三年の命を終った。その報に接した都の人々の間には、一大センセーションを巻き起した。「ねがはくは花の下にて春死なん」と歌った人が、あたかも「そのきさらぎの望月」、釈迦入滅の頃に死んだというので、俊成以下名のある歌人たちはみな感動して、多くの歌を残した。以来、「ねがはくは」の歌が西行の辞世の句となって今に伝わったが、地下の西行は苦笑しているのではあるまいか。花を愛するあまり、いっきに詠み下したこの歌には、それなりの魅力はあるが、何となくロマンティックに流れた嫌いがあり、人を沈黙させるような美しさに欠ける。……。
さすがに慈円は西行の至り得た境地に共鳴して、
さすがに慈円は西行の至り得た境地に共鳴して、
風になびく富士の煙にたぐひにし
人の行ゑは空にしられて
人の行ゑは空にしられて
と歌い、詞書に「風になびく富士の煙の空にきえて 行くゑも知らぬわが思ひかなも、この二三年の程によみたり、これぞわが第一の自讃歌と申し事を思ふなるべし」と記して、富士の歌こそ西行の辞世にふさわしいものであることを示唆した(拾玉菜)。……。
西行を仏教の聖者の如く祀りあげているのは、「ねがはくは」の歌によったのはいうまでもないが、当時としてはその方が通りがよかったし、今でも一般の人々はそう思っているようである。だが、西行の真価は、信じがたい程の精神力をもって、数奇を貫いたところにあり、時には虹のようにはかなく、風のように無常迅速な、人の世のさだめを歌ったことにあると私は思う。
(虚空の如くなる心)
西行を仏教の聖者の如く祀りあげているのは、「ねがはくは」の歌によったのはいうまでもないが、当時としてはその方が通りがよかったし、今でも一般の人々はそう思っているようである。だが、西行の真価は、信じがたい程の精神力をもって、数奇を貫いたところにあり、時には虹のようにはかなく、風のように無常迅速な、人の世のさだめを歌ったことにあると私は思う。
(虚空の如くなる心)