7月12日 第24回目の3人旅は佐和山城と竹生島そして大谷吉継のお墓を巡る旅です。

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前に3人旅で彦根を訪れたとき、時間の関係で行けなかった石田三成の佐和山城。
「治部少に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」 と言われるぐらい
彦根城や琵琶湖を見下ろす標高233mの佐和山の山頂に5層の天守閣がそびえていたということです。

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お昼は夢京橋キャッスルロードのはずれの四番町スクエアの「ニューあ桜」で1日限定10食の近江牛のサイコロステーキが入ったサービスランチをいただきました♪。とてもお値打ちでおいしかったです。

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彦根からも船があるのですが、次の船まで時間があるので長浜港まで移動し、ずっと行きたいと思っていた竹生島へ船で渡ります。
万城目 学さん原作の「偉大なる、しゅららぼん」が3月に公開されたこともあり、若い人が多かったですが、私のお目当ては西国三十三所の第30番札所 宝厳寺です。なかなか来ることができないところなので、お札を納め、御朱印をいただきました。

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次は、石田三成の「刎頚の友」と呼ばれる大谷吉継の首塚です。関ヶ原での小早川秀秋の裏切りによって西軍の敗北を悟った吉継が、敵に首を渡さないよう、湯浅五助の介錯で自刃し、甥の僧・祐玄が首を錦の袋に入れて、敦賀の逃亡の途中に、この地に埋め隠したといわれている所です。JR米原駅の北西0.8kmの畑の中にぽつんと立っている祠で、今も地元の人々により、大切に守られ供養されています。

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関ヶ原まで高速に乗り、次は関ヶ原の大谷吉継のお墓です。ハンセン病を患っていた吉継は、自害する前に五助に「病み崩れた醜い顔を敵に晒すな」と申し伝えて果てました。五助は主君の命を守り、吉継の首を戦場から離れた場所に埋めました。埋め終わった時に、五助は藤堂高虎の軍に所属する藤堂高刑に発見されてしまい、「私の首の代わりに、主君の首をここに埋めたことを秘して欲しい」と頼み、藤堂高刑はそれを受けて五助の首を取りました。藤堂高虎は、甥の高刑が湯浅五助の首を取ったことに喜び、徳川家康の本陣に報告します。五助の首を見せた際、家康は手柄を褒めつつ、大谷吉継の側近である五助なら主君の居場所も知っているはずと、高刑を詰問しました。高刑は五助との約束を守り、頑として在処を言わなかったということです。その姿勢に家康は感心し、自分の槍と刀を与えたと言われています。

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夕飯は、いつも水を汲みに行っている泉神社湧水に近いイワナと山菜料理の「若いぶき」でイワナの刺身、塩焼き、甘露煮とイワナ飯や山菜の天ぷらをいただきました。イワナのフルコースとすごく柔らかくカリッと揚がった山菜の天ぷらに大満足です。

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三成と吉継の有名なエピソードがあります。
大坂城での茶会で、招かれた豊臣諸将は茶碗に入った茶を1口ずつ飲んで次の者へ回していきました。この時、ハンセン病の吉継が口をつけた茶碗は誰もが嫌い、後の者達は病気の感染を恐れて飲むふりをするだけでしたが、三成だけは普段と変わりなくその茶を飲み(一説には吉継が飲む際に顔から膿が茶碗に落ち、周りの者達はさらにその茶を飲むのをためらいましたが、三成はその膿ごと茶を飲み干し、おいしいので全部飲んでしまったからもう一杯茶を注いでほしいと気を利かせたと言い伝えられています)気軽に話しかけてきました。その事に感激した吉継は、関ヶ原において共に決起する決意をしたということです。

歴史は勝者に都合のいいように後世に伝えられていくという側面を持っていて、石田三成は秀吉亡き後、その威光を笠に着て天下を狙う極悪人のように仕立て上げられているような感がありますが、私は三成や吉継のほうが好きです。
今回は三成の佐和山城址、米原・関ヶ原の吉継の墓を巡り、佐和山城へは龍潭寺から登りましたが、その隣の島左近の屋敷跡があった清涼寺にも立ち寄り、3人に思いを馳せることができ、とても心に残る旅でした。