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あらすじ
悲しいのに、幸せな気持ちにもなれるのだ。七年前、二十五才という若さであっけなく亡くなってしまった一樹。結婚からたった二年で遺されてしまった嫁テツコと、一緒に暮らし続ける一樹の父・ギフは、まわりの人々とともにゆるゆると彼の死を受け入れていく。なにげない日々の中にちりばめられた、「コトバ」の力がじんわり心にしみてくる人気脚本家がはじめて綴った連作長編小説。
(2014年 本屋大賞 2位)332点

 

ひと言
読了後の感想は、ほんとうにいい本と出会えてよかった♪。大賞作品をまだ読んでいないけど、自分的にはこれが大賞じゃないかと思いました。本の帯の書店員さんの言葉「やさしいゆったりとした時の流れを感じる小説にとてもいやされました! 人がコトバがやさしい。ゆったりとした物語の中にキラッキラッと輝くコトバが入っていて幸せをかんじました」通りの本です。

 

 

 

ふいに、テツコは、どこかで焼き立てのパンの匂いがしたような気がした。「あの時の、夜のパン屋さんみたいなもんなんだ」テツコがつぶやくと、ギフは一拍おいて、「ああ」と湯につかった時のような声を出した。「そう。よく覚えてたねぇ。一樹の病院の近くの、あのパン屋」
それは暗い夜道にあった。ギフとテツコは夜になると、二人きりでよく歩いていた。病院の帰り道だったからだ。一樹がガンだと知らされて、手術も無理だと言われて、それでもまだ元通りの生活に戻れるかもしれないという、かすかな希望を抱いていた。
職場と病院と家とを何回も往復したあの暗い道。寒かったし、悲しかったし、二人とも疲れきって口もきけなかった。その時、行く先にポツンと明かりが見えた。猫が跳ねている立て看板が出ていた。近づくと、パン屋だった。もう夜の十二時を過ぎようとしていたのに、中では昼間のように人が働いていた。テツコとギフが入ると、「もうすぐ新しいのが焼き上がりますよ」と店の人に言われ、二人は待った。その時の二人は待つのに慣れきっていた。病院のあらゆるところ、検査結果を聞くための部屋や支払い所、手術室、詰所などで、ただひたすら待っていたからだ。パンの焼ける匂いは、これ以上ないほどの幸せの匂いだった。店員が包むパンの皮がパリンパリンと音をたてたのを聞いてテツコとギフは思わず徴笑んだ。たった二斤のパンは、生きた猫を抱いた時のように温かく、二人はかわりばんこにパンを抱いて帰った。悲しいのに、幸せな気持ちにもなれるのだと知ってから、テツコは、いろいろなことを受け入れやすくなったような気がする。(ムムム)

 

 

 

 

「じゃあさ、魔法のカードちょうだい」と言うと、岩井さんは、「何、それ」と絶句した。
「一番強いのくれたら結婚してもいい」岩井さんのことは、正直、わからないことだらけだが、誰よりも「ほんとうに美しいもの」がこの世にあると思いたい人なのだろう。女の子に名刺を三枚渡したことなど、すっかり忘れているらしく、「何の話?ねえ何だよ。ヒントちょうだい。ヒント」と電話の向こうで大騒ぎしている。テツコも女の子も岩井さんも、生まれてから今に至るまで、まだ一度も「ほんとうに美しいもの」なんて見ていない。でも、だからと言って、ないわけじゃない。「一番強いのって、何だよ」「女の子にあげたヤツ、魔法のカード」「ああ、アレかあ」優位に立った時の余裕の声で「アレね」と何度も言う。小細工の好きな岩井さんは、徹夜してスペシャルなカードをつくってくれるだろう。それさえあれば、うっかり自分の足元にある暗い淵をのぞきこんだとしても、戻ってこれるだろう。
そうか、私が欲しかったのは、それだったのか。テツコは歩きながら、なんだ、そーだったのか、と思った。自分の帰るべき家に明かりが灯るのが見えた。たった今、一足先にギフが帰ってきたのだろう。ただひたすら、そこを目指しながら歩こう。怖いものなど、何もない。(魔法のカード)

 

 

 

 

「どこ行ってたんだよ」岩井がもう一度言うと、テツコは「はい」と紙袋を渡した。京都の店の名前が入っている。岩井はそれをめざとく見つけた。「京都、行ってたの?」うん、とテツコはうなずいて、「超、寒かった」と言った。紙袋の中身は、茶碗だった。 「何でまた、茶碗?」と岩井が言うと、それを見ていたギフが「あ」と小さく叫んだ。「岩井君の茶碗、買いに行ってたのかぁ」岩井は、何だか見覚えがあるような気がして、食器を上から見たり、ひっくり返したりしていたが、そうだ、これはテツコとギフが普段使っている茶碗とよく似ている、と気づいた。「今度来る時は、それ持ってきてね」一緒にご飯を食べた時の、ちょっと寂しかった気持ちを思い出し、岩井は頭をかいた。テツコはギフの方を向き、あらたまった様子で、「お義父さん」と言った。お義父さんなんて呼ばれたのは初めてだったらしくギフはギョッとなって、おびえたような顔になったが、観念して座り直した。
「もういいよね。一樹は死んだってことで」ギフは、うんとうなずいた。
「もう、ここにいないってことで、もう、そういうことで、いいよね?」ギフは、うんうん、とうなずいた。 そのまま三人が、黙って座っていると、電球がバカになっているのか、照明がチカチカと点滅した。ギフが見上げて、「一樹もそれでいいと言っている」と言った。
……。……。
酔っぱらったギフが饒舌に人生を語る。
「人は変わってゆくんだよ。それは、とても過酷なことだと思う。でもね、でも同時に、そのことだけが人を救ってくれるのよ」(男子会)