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あらすじ
遠く隔絶された場所から、彼らの声は届いた。紙をめくる音、咳払い、慎み深い拍手で朗読会が始まる。祈りにも似たその行為に耳を澄ませるのは人質たちと見張り役の犯人、そして…しみじみと深く胸を打つ、小川洋子ならではの小説世界。

 

ひと言
いつも感心することであるが、今回も小川 洋子さんの 読みやすく、心にすっと入っていく文章を読ませてもらった。人質になった8人のどの朗読も不思議な味わい深さがあり、最後の、犯人グループの動きを、盗聴する任務の特殊部隊の一人の朗読がこの作品をうまくまとめている。もし自分がこのような極限状況に置かれたら、どういう話をするのだろう?と思いながら読んだ。

 

 

青年の槍投げを見た私は、もう決して、見ていない私には逆戻りできなかった。心の片隅にぽっかりと切り取られた楕円の競技場は、いつでも私の中にあり、青い空と深い静けさをたたえている。観客席は私のために、座り心地のいいベンチを空けてくれている。時折、私はそこへ腰を下ろす。例えばどうしようもなく泣いてしまいそうになる時。青年は槍を構え、スパイクの音を響かせて姿を現す。そうして私と彼以外誰もいない競技場の空に、槍を投げる。それはまるで夫の作った飛行機のように、あるいは夫の魂そのものであるかのように飛翔する。槍は到底私になど手の届かない遠い地点に着地するが、心配はいらない。慈しみに満ちた手で青年が引き抜き、一歩一歩また私の胸まで届けてくれるからだ。彼の足音に耳を澄ませながら、私は涙を拭う。私はすっかり歳を取ってしまったけれど、槍投げの彼はずっと青年のままだ。(第六夜 槍投げの青年)