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パーマン85号のいま日記

日々思ったこと、感じたことを綴ります。

自分の人生について、いま岐路に立っている。


小さい頃は、万能感に満ち溢れているものだと思う。

「将来は…になって、…する」とまるで、自分が本当にそれになれるかのような心境に陥っていた。

しかし、年を経るにつれて、自分の道を自分で決めていかなければならない。

それは、自分の可能性を一つずつ否定していく、という過程をいくばくか経なければならないともいえる。

その行為の連続が、もしかすると世の中を良くしてきた。


「自分が何をしたいのか」ということと、「自分は何をすべきか」ということは似て非なるものだ。

前者は自分の意思、後者は周りの希望である。

どちらが重要なのだろう。自分の信念に従って生きるのか、それとも周りの期待に沿って生きていくのか。

幸福なのは自分の信念に従って生きることだろう。そしてその結果として自分の行いが周りの人たちの期待にこたえられればよい。


物質的に豊かになったこの日本という国で、個人の意思が尊重されつつある。働くという行為そのものの価値も変わってきている。自らが自らの意思で自らの進路を選択できる世の中にある。


以前の社会より、自らの意思が尊重される分、個人の行動は目立つ。というか目立たなければ埋もれてしまう。

指示待ち人間が登場するのも納得できる。人間そのものは本質的には変わらず、社会が個人主義に傾倒したために相対的に人間の主体性が失われたと錯覚してしまうという見方もできる。


今後の日本で重要なことはなにか。

知識。決断力。勇気。チャンス。


今後の日本を創っていくのは間違いなく子どもたちである。


坂本竜馬は土佐藩を捨て、藩という枠にとらわれず国という単位で改革を考えた。そして、日本の夜明けをつくった。


これからの日本が生き残る方法は、国という枠にとらわれず、地球規模で改革を考えられる人物かもしれない。


こう考えただけで自分が教育に携わる意味があると思う。

今日はとある放送局で行われた説明会に参加した。


皆、若い。


私は現在新卒で就活している学生たちと比べると少し年齢が上ということもあり、皆が若く見える。

しかし「とても活気がある」とは、なかなか言い難い雰囲気だった。

そういうものなのかもしれないが、何か重苦しい、緊張感につつまれた会場となった。


よく、就職活動では「いつもの自分で」という言葉をきく。それは場の空気に押されてしまって「いつもの自分」が出せなくなる人が多いからだと思う。

「いつもの自分」が面接や選考で出せるならば誰も苦労はしない。


「場に慣れ、自分を最大限発揮する」

ということが必要だろう。


それはもしかしたら、必ずしも「絶対に○○に入りたい!」という気持ちを全面に出すということではなく、肩肘はらずに「どうしたら私+放送局で社会に貢献できるか」と冷静に考えられるかということではないだろうか。

これは放送局に限ったことではなく、他の企業も同じことではないだろうか。


「一緒に働いていて楽しそうな人=面接官と馬が合う人」ではなく、

「一緒に働いていて楽しそうな人=社会に貢献することに対して同じ志を持てる人」

なのかもしれない。


その上で、面接官の真意をはかり、話に寄り添い、求められているものを答える。

会話のキャッチボールを楽しむ。


今一度、冷静に自己分析、企業研究をしてみたい。

「ありがとう」


という言葉を今日どれだけ使っただろうか、思っただろうか。

辞書には「感謝の気持ちをあらわす言葉」と書かれている。


感謝。


最近、あまり意識していなかったようにも思う。


ありがとう、その言葉、いやその気持ちを感じたくて仕事をしている人が大勢いる。その気持ちを伝えたくて、がんばっている人がいる。


時間は有限だ。しかし、私たちはそのことを忘れている。それと同じように「感謝」の気持ちも忘れてしまっているのかもしれない。

今を生きている、この瞬間にどれだけの人にありがとうを伝えられ、ありがとうと思ってもらえるか。



しかし人生では「この野郎」と思うときも沢山あると思う。


でも、その言葉をふと「ありがとう」に変えるためにはどうすればいいかって考えてみたら、もしかしたらまた世界が違って見えてくるかもしれない。


身近な人にこそ、忘れやすいこの気持ちを、伝えていきたい。

一生、忘れてはいけないことだと思う。


ありがとう。

いつも感謝しています。

ある放送局のエントリーシートが通過していた。

次は一次面接である。


道のりとしてはさらに二次、三次、四次、最終面接、その途中に筆記試験がある。

つまり、まだ4つ以上の面接が残っている。


一喜一憂はしていられる状況ではない。


すべての面接において具体的かつ有効な提案ができるように準備をしたい。

東京の江戸川区で23日夜、7歳の男子が両親による殴る蹴るの暴行によって死亡した。

虐待死である。


逮捕された両親は警察の調べに対して、「食事を取るのが遅く、きちんと食べるために『しつけ』をした」と語っている。


これが本当ならば、とんでもないことだ。


そもそも「しつけ」の意味を完全に履き違えている。

「しつけ」とは我が子(この場合は血のつながっていない子どもだったにせよ)に対して、我が子が世間に出ても自信を持って生きられるように、他人様に迷惑をかけないように、世の中一般の礼儀だったり、所作、作法を教えるものである。

そして、何より親のその行為の根底にあるのは、「愛情」である。


子どもに対する「愛情」こそが、「しつけ」を行う原動力である。

それは何も「しつけ」に限ったことではなく、褒めるのも、叱るのも、全てである。


死に至らしめるまでの「しつけ」にその「愛情」があったとは到底思えない。


では、この問題の根本は何なのか。


両親の「愛情の欠如」、「歪んだ子どもへの気持ち」などが問題として挙げられる。

しかし、私が最も怖いと感じるのは、この虐待を防ぎきれなかった地域や学校、行政である。


決して、彼らを一方的に批判するつもりはない。

しかし、今回亡くなった子どもに関しては以前から体にあざができたり、歯科医が虐待の可能性に気付いている。

子どもを裸にして、調べることはできないが、もっと子どもに寄り添うことはできたのではないだろうか。

場合によっては子どもを保護することはできたのではないだろうか。

もちろん、これは結果論とも思う。だが、一人の尊い命が亡くなっているのもまた事実である。


子どもの異変には、必ず何かの信号が隠されていると思う。

そう思い、動ける大人が増えるのを期待するとともに、私もそのような大人になりたい。