大阪のガラスの製造会社に就職して4年間、入社したら会社で仕事よりダンスを先輩に教えられて仕事中ですよ、三交替勤務をしてたので夜勤になるとダンスの教習です、ブルースやジルバやマンボですが、教えられてダンスホールに連れて行かれました、最初は踊れないので、近くのダンス教室に3か月程通い、ワルツやタンゴも踊れる様になり、ダンスホールが楽しくてね。

仕事は高熱作業のきつい仕事でしたが、夜勤はお偉方も居ないし、将棋をしたりのんびりしたものでした、24時間稼働してるので休憩時間とかはなくて、調子が良ければのんびりした時代でした。

 

4年目に転勤を言い渡され、地元の工場に最新工場が出来るのを機会に、希望を出してたので実家に戻る事ができました。

しかしこんな田舎町、ダンスホールなんてある訳がなくて、面白くない日が悶々と。

とある場所で団体レッスンをしてるのを聞いて、入会したのが終生指導をしてもらう先生となりました。

 

そこから、個人レッスンや、認定テストや、競技会への道のりを歩むことになりました。

その先生の先生が中部のA級の先生で、毎週日曜日の午後から夕方まで競技指導をされ、その練習が私の基礎となりました、シャドーばかりで、時々動かせてもらえます、ワルツは滑る床で滑れ~半端なく大きく動かされ、首伸ばせ、肩下げよ、倒れて行くほど動け、タンゴは滑るな踏みしめよって、そんな練習で、休むと「もっと動きなさいよ」つて、動いていないと見てもらえません、私の先生も同じように扱かれる訳で、お安いレッスン料で教えて頂きました。

 

 

        

 

 

       

 

 

       

 

競技ダンスには約9年ほど打ち込みましたが、先生が東京へ3年間修業で、名古屋にレッスンに行ったりして、成績はスタン、ラテン共B級までで、東京の先生が帰ってから新しい技術やステップも教えて頂き、B級でも入賞できるようになりましたが、出産も2回あり休んだ時期も多かったですが、全日本選手権にラテンで出させてもらったのが最後となり、子育てもあり33歳頃引退しました。

当時は30歳超えたら引退時期と言うのが当たり前でしたから、なんの未練もなかったです。