こんにちは。現役高校教員のてーちゃーです。


今回は、このブログのメインである中心仮説

と深く結びついた話題を考察します。




初めにお断りしておきますが、今回も理科教育界隈にはびこる良くない慣習や、俗説や誤解を心ゆくまで批判しようと思います。が、私、てーちゃーは、あくまで「実験肯定派」です。なので、今回は最後に、必ず建設的なことを言明することをお約束します。


さて、多くの熱心な理科教員が、実験に対して異常なほどの情熱をもっています。実際、熱心な教員というものは、ちょっとした演示実験でも、その準備段階で入念な予備実験をしていることも珍しくありません。これが生徒実験ともなれば、器具の準備、片付け、安全管理、レポートの評価など、莫大な時間とエネルギーが投入されます。


なぜ、理科教員はそんなに努力してまで実験を行うのでしょうか?


その理由の1つに「生徒が喜ぶから」というものが含まれることは、疑いの余地がありません。で、ここで話を終わらせずに、もう一段階掘り下げましょうというのが、私のスタンスです。


なぜ生徒は実験をすると喜ぶのでしょうか?


その理由を真面目に考えてみると、理科教員にとって必ずしも喜ばしくない説明が幾つも可能なことは明らかです。


まず第一の理由は、単純に座学・講義・問題演習が嫌だからというものです。難しい話を聞いたり、計算をさせられたりするよりは、実験をしているほうがマシだということです。生徒が実験を喜ぶ理由のうち、まず半分以上はこれだと思っていいでしょう。


しかし、


理科が分からない生徒の大多数は、


「実験を直接やっていないから分からない」


のではなく、


「実験結果を数理的なモデルとして理解できない」


のです。これは基本的には地道な数学力の向上と、懇切丁寧な説明によって解決すべきことです。それを「実験」で「実感」したことにして誤魔化すというのは、もはや教育に対する諦めとも言えます。講義が下手な教員は、実験でカバーしようなどと思わず、問題をすり替えず、講義自体を改善すべきなのです。


実験を擁護したい人は「知的好奇心を刺激するからだ」という説明をしたがります。しかし、その「知的好奇心」と呼ばれているものの中身については、真剣に考えていない人が余りにも多いです。これは非常に知性の高い教育者でもそうです。どんなに頭が良くて仕事ができる人でも、そういう観点をもたない人には、見えないのです。


我々が「知的好奇心」と呼ぶものを、人間がおそらく進化的に獲得し、本能としてもっているであろうことは、私も賛同します。


しかし「知的好奇心」は幾つもの本能の複雑な組み合わせに分解できるものです。実験中に現れるのは、例えば「珍しいものや、統計的に稀な現象に注目する本能」や「発光や爆発などの派手な現象に反応する本能」です。


私から見ても、実験を見つめる生徒を観察し、このような本能が備わっているらしいと思えます。このこと自体は、まことに心強いです。しかし明らかに、これらの本能はうまく噛み合わなければ、知識や知性の発達には結びつきません。ましてや「科学的思考」の獲得に結びつけようなどと思うならば、毎回相応の工夫が必要となる筈です。


でんじろう先生のような実験の名手から理科教員が学ぶべきことは、明らかに沢山ありますが、数々の実験の中には、とても「科学的思考」の獲得にはつながらないような「派手さ」だけのものもあると思います。それら玉石混交の実験の全てを「知的好奇心を刺激するもの」だと擁護するのは、デタラメであるだけでなく、時には有害ですらあるでしょう。


ゲームを悪いものだと決めつけるつもりはありませんが、後になって冷静に振り返ってみれば、大して面白くもないとしか思えないゲームに滅茶苦茶ハマってしまって、ものすごい時間を浪費した経験を持つ人は少なくないでしょう。ゲームは「知的好奇心」、もしくはその構成要素となるような各種の本能の誤作動を巧妙に利用しています。それこそでんじろう先生が敵わないほど巧妙でしょう。それを誤作動だと言い切るのは、ゲームを長時間やってしまうことと、科学的思考の獲得が結びつくことは殆ど無いからです。


さて、私は今回の文章の始めに、必ず建設的なことを述べると約束いたしました。それが以下に述べる内容です。


生徒が実験を喜ぶ理由は、まず半分以上は座学・講義・問題演習が嫌だと言うことの裏返しでしかありません。残りの理由のうち「知的好奇心が刺激されているから」というのもありますが、そこで「知的好奇心」と呼ばれているものは、池にナトリウムの塊を投げ込むYouTubeを見て喜ぶときや、面白くもないゲームを長時間やってしまうときにも活性化されているときにはたらいている本能と大部分が重複するものです。

しかし、その中に、無数の石ころの中に、確かに「玉」は存在します。私はこのブログの最初の文章で、人生で最高のアイディアとして、「人間には技術を身につけるための本能」が備わっており、「実験」しているときに覚える名状し難い充足感は、この本能に由来するという仮説をぶち上げました。

では、私の言う「技術を身に付けるための本能」というのは、今回の話題で登場した本能とはどういう関係にあるのでしょうか? もちろんこれも様々な細かい本能に分解できるでしょうが、その核心は何なのか?

私はこの本能を「珍しいものや、統計的に稀な現象に注目する本能」や「発光や爆発などの派手な現象に注目する本能」とは分離して考えることができる核心をもつものだと考えています。

では、私の言う、「技術を身に付けるための本能」の核心を定義したいと思います。


それは、


「この複雑にして多様な世界が、注意深く条件を整えれば、同じ入力に対して、同じ出力を返すという側面」に対して反応する本能です。


このような本能が十分に反応していれば、氷水の温度が必ず0℃付近であり、沸騰している水の温度が必ず100℃であるというような、視覚的にも聴覚的にも地味な実験が、子どもに深い感銘を与え、またその後の知性の発達に影響を及ぼすることができます。


なんか長くなってしまったので、今回はこれで終わります。