はじめまして。

私、てーちゃーと申します。

今回は、私の仮説、主題、問題意識について説明させていただきます。

今後の更新は、しばらくは今回の内容を補足していくことになると思います。


「科学」において「実験」が必要にして不可欠であることは自明であり、議論の余地はありません。しかし、敢えて言わせてもらいますが、「科学教育」において「実験」が必要だとか重要だとかいうことについて、明確な説明は存在しません。


通俗的な説明は何通りか存在します。

例えば「興味、関心を引き出せるから」「面白いから」というものがあります。これは、「なぜ興味、関心を引き出せるのか?」「なぜ面白いのか?」という別の謎への言い換えに過ぎません。

また、「一目瞭然だから」とか「百聞は一見にしかず」とかいう説明も、生徒が学習の過程で、つまずいている箇所と実験で示されていることが寸分の狂いもなく一致している奇跡的な場合にしか成立しない、詭弁に過ぎません。

更に、新学習指導要領の「実験でしか身に付かない能力があるから実験しなさい」という即時的同語反復による正当化は、その能力をどう測定するのか?、その能力を身につけた者は大学受験などで報われるのか?、というような極めて切実な問題を棚上げにしてしまう危険な論理です。

このように、一般に実験の重要性の説明と考えられている言説は、改めて真剣に考えてみると、とても説明と呼べるような代物ではございません。


ここで、申し上げておきたいのですが、私、てーちゃーは「実験否定派」ではありません。私自身は、間違いなく「科学教育」においても「実験」が大切だという信念を持っています。しかしそれは、理論的根拠からくるものではないのです。生徒の反応もそうですが、何より私自身が、実験をしているときに何とも名状し難い充足感を覚えるのです。私の信念はそこに基づいています。


実は10年ほどの間、私はこの問題について考えてきました。そして、人間には「科学」を身につけるための本能が備わっているのではないかという説を考案し、それを何とか正当化できないものかと思い悩んできました。


それは困難を極めました。仮に科学誕生をニュートン以降だと考えると、進化が追い付くには時間が短過ぎ、また、科学を身に付けることが特に生存に有利になったとは考えにくいです。


ところが、つい先日、人生で最高のアイデアと思えるものが降ってきて、答えらしきものに辿り着きました。


人間は「技術」を身に付けるための本能を持っている!


これが私の仮説です。「科学技術」という言葉に象徴されるように、現代では科学と技術は混同されやすく、また分かち難い場合も多いのですが、「技術」の歴史は科学より遥かに長く、何百万年も遡ることが可能です。


そして、原始の人類にとって「技術」を身に付けることは生存に有利だった筈です。したがって、「技術」を身に付ける本能ならば、DNAに刻まれていたとしてもおかしくないのです。


とすれば、科学教育の方法論とは「実験」によって「技術を身に付けるための本能」を刺激し、それを何らかの(講義、読書、議論など)の手段によって「科学的思考」を獲得させることだというふうにまとめることが可能でしょう。


この議論が優れているのは、「実験」の重要性を担保するとともに、それだけでは不十分であることをも明確に示している点にあります。


残念ながら、本来であれば「講義」「説明」を改善しなければならない場面でも、「実験」に傾倒していく理科教員は少なくありません。「実験」は生徒ウケも良く、しかも準備や実行に多大な労力を必要とするため、教員が「実験」に逃避することは批判されにくいといのです。一方で、講義を人様に指南できるだけのスキルをもつ理科教員は滅多にいません。生徒ウケが悪く、成績で実績も出すことができない理解教員が、「実験」に逃げ込み、そして何か真理を見出したかのような心地に至るのは無理からぬことでもあります。

そこには極めてねじれた、そして切ない現実があります。


とりあえず、第一回の投稿はここで締めくくることとします。

この文章を読んで下さった方々の、様々なご意見をお待ちしております。

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