こんにちは、ホリエです(   ᷇࿀ ᷆  )


1月25日に、名古屋市東山公園駅近くの「東山のいえ」にて、前回好評いただいた「身体を緩めて身体を楽に使うワークショップ」開催いたします。


なんとなく緩むのって良いよね、と思っていても、なかなか身体を緩めるということが感覚的に分かりにくかったり、或いはもっとどんどん緩めていきたいなー、とか色々な段階の方がいらっしゃるかと思うのですが、どなたにもヒントになる内容かと思います。


<日時>
2018年1月25日(木)10時~12時半(約2時間半)

<開催場所>
「東山のいえ」
(市営地下鉄「東山公園駅」2番出口より徒歩5分)
※場所の詳細はご予約確定時に別途ご案内いたします。 

<定員>
6名

<料金>
6,000円(当日現金でお支払いください)

<持ち物など>
動きやすい服装、飲み物、筆記用具、念のためタオル


主催のさとちゃんがブログにて紹介してくれてます。こちらの記事もどうぞー٩( 'ω' )↓↓↓


2018年あけましておめでとうございます晴れ


年頭にリーディングしたりしてもらったりおみくじを引いたりしてますと、なかなか外も内も大きく動いていく年になりそうなホリエです。

そんな時も、またそんな時こそ、環境と自らとを整え、妥協せずシンプルに、生きていくことを見つめていきたいものです。



さて、年末にTwitterで繊細さについて呟いていまして、それをまとめてみました。(自分の内観も含む)

とくに繊細に生まれついた質の方々の助けになりましたら幸いです。(そしてどなたにも繊細な部分があるよ)


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いちいち細かいことにすべて傷ついてきた、自分の繊細さを観ていたよ

この社会の表現やコミュニケーションって、荒すぎて雑すぎて悲しい

という気持ちとかありましたね


なんでそれで、平気でいられるんだろう?とか小さい頃から疑問だったね

その中で、でも上手に生きていくために

感じていないふりを覚えたんだ


とまあ、そんな自分を慈しみ労い、癒していきながら

開き直っていく(良い意味でね)プロセスをやってきたわけだけれど


何度も繰り返しながら、その度により、自らの生命そのものとして

開いていくということも踏まえつつ


繊細だから良い、悪いではなくて(そもそも良い悪いという観念が粗め)


どんな方にも、とても繊細な感じやすい部分、領域があるように思う

そこは弱さでもあり、裏返すと豊かさでもある

それは、感じ取れる情報量が多いから


ご自分の繊細な

それは柔らかな、傷つきやすい、弱い部分を癒していき

逆に強みとして、豊かさとして活かしていく方向性は

やはり素敵だなと思うのだ


そしてね

繊細でいられなくて、適応しようと感覚を鈍麻させ、固まって粗さに自ら慣れていく

その中でまた表現しようとして

自分の表現の粗さに傷ついて行ったりもするんですよ!

そしてまた固まっていきそんな自分に傷ついて、という絶望ループあるある。繊細なやつめんどくさ!


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ツイートって文体とか文脈とか粗いけど、そこがいいよね?

強く生きよう(笑)繊細なみんな

どんなに悲しみが深くても

やはりそれは愛ゆえに生じているものと気づいていく


そして感じ

癒し


クリアな愛に

また立ち上がります


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施術セッション等で身体やエネルギーに触れていると

たくさんの悲しみを湛えている方がいらっしゃいます


それは辛すぎて、感じることすら出来なかった

あるいは、感じることを許せなかった

そんな悲しみだったりします


そんな深い悲しみも

そもそも、それがなにゆえ生じているのか


そこを感じ、観ていくことが

癒えていくプロセスを導くかも知れません


たとえば

大切な方と、あるいは大切な方に

何かあって悲しみが生じた場合


それはその方をどれほど愛しているのか、ということかも知れませんね

(悲しくなければ愛がない、ということではありません)


ご自身の心の動きを微細にほどき、観察していくことを内観といいますが(その一部)


とても大きいものと感じ、どこから手をつけて良いか分からないような案件も

こんがらがった要素の糸を丁寧に解きほどくことにより、するりと解消することがあります


そうして、様々なプロセスがあり得ますが


悲しみのエネルギーを還し

あるいはその悲しみに素直になり


その方の本来からのあり方を現しながら、すっと立ち上がった時


とても美しい姿が立ち現れます


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今日感じたのは


人は


人もまた


美しきものだなと


しみじみと


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【当たり前のことを書いてみた】

先日、友と話していて出て来たキーワード

「恋愛とは分離ゆえに
分離の中で成り立つもの」

結局、自らがどのようなバランスの中で、どのような表現をしたいのか、ということと思います

そもそもその「自ら」
というものが統合が進むと自他の境界が無くなるので
その上でどのように分離しどのようなバランスで生きるのかを選択していく

生きることそれ自体が、この世にて表現することそのものと感じます

関係性は
「自分」と「相手」が存在しないと生じませんから
ベストな関係性とは
ベストな分離感の上に成り立ちます

「あなた」と「わたし」の差異こそが
豊かな多様性のもと、とも言えます

そこから
認識世界が生じていきます

つまり最初のキーワードに戻ると
「分離した二人がいないと、恋愛は生じない」

‎で、わたくし最近(おもにライブ後の変容で)重ため(と感じる、物理とか具体的な事象を起こす)のエネルギー領域の統合がすすみ、めっちゃグラウンディングし、同時にいい感じの分離も得意になってくるような感覚がありますゆえ

‎なんかなにかがいけそうな気がしますよね( ・ㅂ・)و ̑̑

以前、いわゆる「悟り」というものに興味がある時期があった

いまはわりとどうでも良いけど(笑)


というのも、それは単純に言葉による解釈で、人によって定義が大幅に違うものと分かったから


とはいえ、使用するのに都合の良い言葉なので、自分でもたまに適切な時には使う


で、いわゆる「悟り人」の友人知人がいっぱい居るのだけど(私的定義ね)

彼ら彼女らは基本的に自他の境界線が薄い

固定観念にとらわれない(あるいは、とらわれることが少ない)

またエネルギー(的に感じられるもの)が薄くて(密度感)軽い(質量感)

「閉じている」よりは「ひらいている」

という特徴がある

個人的には付き合っていて楽な人々だ


そのように軽い人あるあるで

「自分がなくなっていく」

ことを感じる


でもそんな中でも

「あるものがある」よ、と


そのへんについての考えが浮かんでいたので、お役に立つ方もいらっしゃるかも、とシェアする投稿をするよ(ここまで前置き)


自他の境をあえて形作っていた緊張が

緩んでいくほどに

確固とした自己は無くなっていくと感じられるけれど

それでも

自らという流れを信じ、乗り、委ねていくほどにまた

確かにある

運動体としての自己が

立ち上がってくると、知るかもしれないね


別の表現をすると


自他の境界線、いわゆる自我って意識の緊張と捉えられるから

それが溶けていく人は、自他の区別がなくなっていく


でもそれとは別に

たとえば自分の軸として立ち上がる意識構造がある場合は

自他の境がないのと同時に

その時その時において確固とした自己と呼べるほどの運動がある


生きていること自体

ひとつの系として捉えられますね

常に流動しつつ留まらず

しかし一定のカタチ、動きを保つホメオスタシス(ホメオスタシスも流動しますが)


自他の境がなくなっても

自分と感じていたものが解体していっても

身体はあり

意識はあり

エネルギーがあるならば

動いていける

動き続ける

ひとつのものとして


これは以前友人に

「ホリタツはどうやって自己を保っているの?」みたいな質問をされた時のひとつの答えでした

それからまた、沢山の気づきと観察を経て

再度、腑に落ちていったこと


基本的に「自分がなくなる!」って、わりと不安や恐怖とくっついていると思うんだけれど


薄くなっていく人、軽くなっていく人に

こういうあり方もあるよ

だから大丈夫(かもしれない)

という例として

愛を制限する理由は

必要ないね、ということを想っていた


たとえば、そうだね

沢山の人に

あなたの愛することを

好きじゃない!

と言われたとしても

それはあなたが愛することを制限する理由にはならない


たとえば

愛する方と

一緒にはいられない

となったとしても

それは愛を制限する理由ではない


他に人はどんなことで

愛を制限してしまうだろうか


愛を拒絶されたと感じ

痛みや

悲しみ

怒りを感じたくなくて

愛を制限するだろうか


しかしそれも愛ゆえのことならば

やはり愛を制限する理由にしなくても良いだろう


理由があるとするなら

自分で愛に制限をかけたい

という想いがそこにあるという

それこそが理由で

他にはただ理屈をつけただけなんだ、と


愛に制限をかけていて

それが苦しくてたまらない方は

だから

自分で解除出来るんだよ

ということ


意図しない制限は

もう、いいよね

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ここのところ、自分の変化/変容に対応して

身体調整/エネルギーワークセッションの中身、質が大きく変わってきています


身体、意識、エネルギー、それらの根源からの視点

多層、多角的なアプローチが可能になるとともに


すべてゼロベースとして

そこからどう生きたいか

どう在りたいかをそのまま現すような

そんななにかが生まれ


やはりそれは

心から、身体から、魂領域、全体性の流れから

素直に、楽に、緩んで、その生をそのままいっぱいに生きる


そこに繋がっているのです

あなたに、わたしに
大切な問いとして投げかける
それは
ただただ
何を望むのか
どのような体験を
どのような世界で
という
シンプルなこと

他者の姿を
鏡として
自らの内なる姿を
その本質を
見つけていくこと

そしてアクションを重ねていく
するべきこと
出来ることは
基本的には
それだけしかないのだから
それだけをやれば良い

誰をも
自分自身を
傷つける必要はなにも
なく

しかし
傷というものも
必然であり
そしてそういう体験として
必要なことでもあったのだと

すべては
大切なあなたへ
大切な自分自身へ

たとえ世界がどうあろうと
個人の幸せを生きることを躊躇わなくて良くて
それは世界こそ、そこから変わり得るのだから
あなたという、わたしというその一点からこそ

繊細な人、感覚の鋭い人、賢く本質を見透す力のある人、心が柔軟で素直な人達の、それがゆえの苦に随分と触れてきたように思う。


見えすぎて苦しくて、往々にして鈍さを学び、何も感じていないフリをする。緊張の鎧で自らを守る。


しかし、本当は感じているのに感じていないフリをする、そこにある矛盾と葛藤は苦しい。


それは自らの本質から目を逸らし続けることと同義であり、心の奥底は哀しみを抱き続ける。


自分に嘘はつけねえぜ、と言うが、よく自分を騙していたりする。例えばある欲求をない、と言ってみたり。


でも奥底の自分は自分を騙していることに気づいている。


その矛盾を解消するには、自分の内にあるものはある!そこをまず認めていく。


それは矛盾なく、感じるそのままを感じ、想うそのままを想うということ。


自分の感じること、想うそのことを、ただそのままを許していくということ。


自分自身を許していくということ。


繊細であるということは、より豊かに生を世界を感じていくことが可能ということだ。

繊細であることを受け入れ、感じることを認め、想うことを許し、緊張を緩め、そうして自分の中心に居る時、様々な感覚に気付きつつ気にならない状態でいられる。


自分自身を生きることが苦であるのか、それとも豊かさであるのか。


その繊細さをギフトとして受け入れるとき、転換がある。


昨日はそんなことを思っていた。twitterより加筆修正