能登半島地震発生から7か月 “ふるさと”の今(第4回) | KARA好き...そしてこれからも

KARA好き...そしてこれからも

KARAとAPRILはずっと一緒!
ずっと見守り応援します!!

夏真っ盛りの被災地能登半島

 

 

今年は地震があり様々な理由で耕作できなかった田畑が多い。

そんな中でもひまわりが咲いているのに目をひかれました。

 

解体予定の自宅にも週末ごとに通い

この先使うことないモノを整理しています。

一番頭を悩ませているのが能登の家なら必ずあるお祭り用の輪島塗や陶器類

 

 

以前はお祭りの際に輪島塗の御膳を各自の家々で準備し客人をもてなしました。

だからどの家にも20人前分以上の御膳一式とお猪口やお皿なのど陶器類、そして座布団があるのです。

この先再建の見込みがなく解体される家に保存場所もないため処分対象にせざるを得ません。

我が家でも多くの漆器類やお猪口、お皿を処分しました。

親と喧嘩腰の対話を重ねながら(>_<)

まだ手付かずのモノもありますが、そうやって家に中を片付ける日々が続いてきました。

少しづつですが前に進めている気がします。

 

 

 

 

発災後から情報の共有をさせていただいてる同郷の方が書いてる連載記事の第4弾

 

>>>

 

 

 

能登半島地震発生から7か月 石川県輪島市町野町出身のシナリオライターが見つめる“ふるさと”の今

2024年8月1日(木) 12:10

 

 

石川県輪島市町野町出身で東京在住のシナリオライター、藤本透さんは、現地ならではの情報や行政の情報をまとめ、ご自身の実家も被災しながら、発災から一日も休むことなく、X(旧・Twitter)で発信を続けています。

能登半島地震発生から7か月。梅雨明けし、いよいよ厳しい夏の暑さが迫ってきています。ふるさとの今を見つめる藤本さんによる連載記事、第4回目です。

輪島市町野町出身のシナリオライター、藤本透です。

 

 

私のふるさと、輪島市町野町は、輪島市の東側にあり、今回の地震の震源地・珠洲市と隣り合っています。町野町は、1956年に輪島市に編入されるまで、単独の町として存在していました。集落を中心として地域の人たちが助け合って暮らしている姿は、昔も今も変わりありません。私は、2歳から高校卒業まで、町野町で過ごしました。思い出のたくさん詰まった実家は、能登半島地震により全壊。7月に解体されました。

 

 

〇道は、まだ本復旧前

7月の記事で、道路のアスファルト舗装が進み始めたことをご紹介させていただきました。その後、町野町金蔵地区と川西地区でもアスファルト舗装が進み、少しずつ舗装範囲が広がってきております。

 

(左)町野町金蔵地区の道路 (右) 町野町川西地区の明治橋 提供:町野町の有志の方 

 

 

復旧復興の要となる道路の復旧が進んできていますが、一方で、地震で地盤が緩んだ箇所など、危険な場所もまだ多く存在します。

7月11日、大雨により町野町のお隣、能登町柳田の天坂から町野町へと入る道が土砂崩れのため通行止めとなりました。

 

町野町真久の復旧工事(7月13日) 提供:町野町の有志の方 

 

 

巻き込まれた車や人はいなかったものの、町野町では井面地区での倒木や、真久地区での土砂崩れもあり、地震だけでなく大雨などで再び道が通れなくなる可能性があることを改めて思い知らされました。

土砂崩れも倒木も早期に応急復旧の対応がなされて通行できるようになったものの、片側交互通行になるなど、交通規制が続いております。また、能登町鈴ケ嶺~能登町久田は1,200mにわたる路肩決壊により、7月24日現在も通行止めのままです。

また、7月17日12時より、のと大橋付近を除く、のと里山海道の対面通行が再開されました。能登へ続く大動脈となる道の開通は、復旧・復興を待ちわびる能登の人たちの希望でもあります。

ただし、仮設道路では急なカーブや、予測不能なジェットコースター並みのアップダウンや、補修のための段差が続くため、制限速度40kmを守っても、かなりの衝撃があります。対面通行が可能となっても、本復旧はまだこれからなのです。通行の際は、どうか安全に気をつけて、事故なく能登にきてほしいと願うばかりです。

 

〇公費解体が進む 慣れ親しんだ我が家から思い出の品

7月に入り、梅雨の雨や余震などで新たに倒壊する家屋や倉庫の話が続くなか、町野町でも被害の大きかった中心部の粟蔵を中心に公費解体が進みはじめました。

 
公費解体中の住宅 提供:町野町の有志の方
 
 

私、藤本の実家も、7月4日より解体がはじまり、2週間後の7月18日に解体が完了しました。

解体の過程を両親が記録して毎日送ってくれたため、少しずつ気持ちに整理をつけながら実家とのお別れの時間をいただけたように思います。

母の成人式や訪問着など思い出の着物や、祖父や父の着物などをリメイクしてもらったウサギのぬいぐるみ、長年飾られていた鷲などの置物、祭りの時に活躍していたお猪口と徳利、銅壺(どうこ)、輪島塗の表札などが倒壊家屋か救出され、またひとつ思い出が手元に戻ってきました。

藤本家から運び出された思い出の品(着物をリメイクしたぬいぐるみなど)提供:藤本透さん
 
 
父は自分の名前の書かれた表札を、大事そうに持ってずっと眺めていました。
父が小さい頃に建て替えた生家であり、私自身も2歳からずっと住んでいた家は、2007年の能登半島地震でその半分を、今回の能登半島地震で残りのすべてを失いましたが、再建に向けてまたひとつずつ新しい思い出を作って行くことが出来たらと考えております。 
 
被災前の藤本家 祭りのごちそうが並ぶ 提供:藤本透さん 
 

〇仮設住宅の完成と避難所の閉鎖

6月27日に行われた知事記者会見において、原則8月中の仮設住宅の完成が改めて発表されました。仮設住宅の完成に伴い、避難所の閉鎖が行われております。

町野町でも仮設住宅の入居が始まり、避難所を退所される方も増えてきました。曽々木にあるふるさと体験実習館は、7月7日に閉鎖されましたが、7月中旬の段階でもまだ数世帯の方々が残られていらっしゃいます。
東大野の町野町第2団地の鍵渡しは、7月24日と7月25日、希望される全員の方が入居できることを祈るばかりです。

 
 

町野町の発災時の避難所は、倒壊家屋が多かったこともあり、非常に多くの人が避難しており、発災時は寝返りも打てないほどでした。

冷たい体育館の床の上に段ボールや布団、毛布などを敷き、数台のストーブでどうにか暖をとりながら、電気も水も止まった避難所で過ごしていたのです。

底冷えのする1月の避難所で、どうにか温かく少しでも快適に過ごせないかと、自宅などから畳を運んできた人もいらっしゃいました。

そんな中、まだ発災間もない1月から、避難所に必要な枚数の畳を無料で届ける「5日で5000枚の約束。」プロジェクトが、全国の畳店の方々によって動いておりました。

 

七尾市総合体育館の避難所は、畳の上に段ボールテント 提供:「5日で5000枚の約束。」プロジェクト 

 

 

この避難所のお写真は、6月中旬に閉鎖した、七尾総合体育館避難所の3月27日時点のものです。

プロジェクトメンバーの方が届けてくださった畳の上に、ダンボールテントが設置され、プライバシーにも配慮されています。

さらに団らんスペースや、昼寝や食事が出来る場所あることで、避難所で過ごす方に少しでも快適に過ごしていただきたいという気遣いがうかがえます。

畳が入るまでは土足で過ごされる方が多かったのですが、畳があることで自然に靴を脱いでくださるようになり、さらには自主的に掃除を行ってくださる方も出てきて、衛生環境も改善されるという効果が生まれました。

避難所で度々問題となっている、スリッパなどによる足音の問題も、軽減されました。

「5日で5000枚の約束。」プロジェクトのホームページには、時系列ごとに取り組みの状況が掲載されております。

 
 

災害協定を結んでいる市町に、ただ畳を運ぶだけではなく、丁寧なヒアリングを行って実施されていることがわかります。

さらに、避難所にお届けした畳は、避難所集約時の際に移設などが行われました。

七尾市総合体育館が最終的に全面の畳敷きになったのには、こうした背景があります。

また、より衛生的にご利用いただけるように、プロジェクトメンバーの方が月に一回は避難所をまわり、状況を確認しながらアドバイスも行ってくださっております。

畳を届けて終わりではなく、その後も寄り添い続ける姿勢に、たくさんの人が助けられたことと思います。

今後、すべての避難所が閉鎖となった場合は、地域のお祭りや文化行事で利用していただくなど、処分ありきではなく、まだ使えそうな畳は再利用も過去の事例から考えられております。

今回の能登半島地震では、避難所の状況や道路状況の問題もあり、すべての市町に届けられたわけではなく、また、畳をお届けできた避難所のすべてが七尾総合体育館避難所のような活用がなされたわけではありませんが、それでも、この段ボールテントのひとつひとつに避難者の方がいらっしゃったこと、閉鎖までの間にたくさんの方が過ごされたことを、ぜひとも知っていただければと思います。

平時の防災訓練、防災イベントなどでも、災害時の避難所の環境が少しでもよくなるように、こうした取り組みがあることを、知る機会を少しでも増やすきっかけになることを願っております。

 

〇断水解消=元の生活ではない

1月21日より洗濯が困難なみなさまを助けてくださっていた、災害洗濯支援チーム(DSAT)さんより、7月より洗濯クリーニング支援の受付を一時停止するという苦渋の発表がなされました。

能登半島地震できっかけに発足したDSATさんは、国家資格である「クリーニング師」による災害洗濯支援チームです。石川県内のクリーニング屋さんと連携を取り、断水地区を中心として、たくさんの方を助けてくださいました。

 
 

町野町でも断水時期が長く、発災からひと月ほどは洗濯もままならず、山の水などでどうにか洗濯を試みたり、少ない生活用水を工夫して下着だけでも洗って過ごしたり、という状況が続いておりました。

まだ雪の降る1月や2月、脱水をする手がかじかんで上手く絞れず、支援に入ってくださった方に、脱水器を届けていただいたこともありました。

どうにか洗濯ができても、今度は乾かす場所なく、机を逆さまにして足にロープを渡すなどしながらどうにか工夫して乾かしていたところに、支援物資ご提供のお申し出をいただき、室内物干しを届けていただいたことを、今でも覚えています。

 
東陽中学校の避難所に届けられた室内物干し 提供:町野町の有志の方 
 
 

このような状況ですから、当然上着や毛布などは洗うことはできず、みなさん避難当初の汚れた状態で我慢しながら過ごしておりました。

DSATさんは、発災からの半年間、日常の衣類をはじめ、冬の雨雪で汚れてしまった上着、地震後の雨漏りで駄目になってしまった毛布などの寝具をクリーニングして、新品のような綺麗な状態にして届けてくださる洗濯支援を続けてくださいました。

町野町や近隣地区の能登町でもたくさんの方が助けていただき、本当にお世話になりました。

生活に最低限必要なもののみならず、大切に受け継がれてきた着物や、お正月に新調したばかりのカーペットやラグなども受け入れてくださり、みなさまの気持ちを洗濯で明るく照らしてくださいました。

断水が解消したからといって、すぐに元の生活に戻れるわけではありません。

町野町では、建設中だった仮設住宅の残り70戸が完成し、7月下旬に入居が始まります。

 
 

広域避難を続けていらっしゃった方が、仮設住宅を拠点としてようやくご自宅の片付けなどに入ることができるのです。

ライフラインの復旧や、仮設住宅への入居はゴールではありません。現地にとっては、やっと生活の復旧のためのスタートラインに立っている状況です。

能登半島地震をきっかけに始まった新しい災害支援があること、そして、このような災害洗濯支援でまだまだ沢山の方を助けていただけることを、どうか知っていただければと思います。

 
曽々木海岸を走るDSATの車両 提供:DSAT災害洗濯支援チーム 
 

〇上下水道復旧も依然使えないトイレ、汚物の袋が破裂し…

奥能登でも、各地で早期復旧困難地区を除いての断水解消の情報が聞かれるようになりました。断水の解消は喜ばしいことですが、それだけですべてが元通りになるわけではありません。下水道にあたる浄化槽の修理は、いまだ順番待ちの状態が続いています。

奥能登はほぼ全域で甚大な被害があり、修理業者の方も被災している中、金沢などから業者の方が入るようになりましたが、様々な理由でトイレが使えていないご自宅や施設はまだ多くあります。

 
 

浄化槽が使えないため、簡易トイレや災害用のトイレシートなどで対応を続けている状況です。

一番被害が大きかった時期に比べて少なくなってきたとはいえ、今現在でも汚物が出る地域があるのです。

この簡易トイレは排泄物に凝固剤を入れて処理するのですが、凝固剤といっても完全に固まるわけではありません。

このトイレのゴミは、輪島市ではもえるゴミ扱いとなりますが、ゴミ収集車での回収・圧縮時に破裂し、収集車や作業に当たっているゴミ収集員の方が汚れてしまうということが、多々起きているという話を伺いました。

酷い時はゴミ収集車の後方に、汚物が2〜3メートル飛び散ったこともあり、水が使えない上に、汚物が飛び散ったままの状態で次のゴミステーションに移動しなければならず、ゴミステーション付近が汚物まみれということもあったそうです。

発災当時は冬で、雪や雨で流れましたが、断水のため洗うことも出来ず、どうしようもなかったため、その苦労や心労は計り知れません。

 
 

汚物の破裂被害に遭わなくても、汚物が飛び散り、ゴミステーションを汚してしまうため、衛生面だけでなく感染症の問題もありました。

断水が続いている中では、収集車を洗うことも汚れた制服を洗濯することもできません。ゴミの中身がなんであるかわかれば、対策が出来るとのことで、多数の人が避難していた町野町の東陽中学校の避難所では、排泄物の入ったゴミを他のゴミと分けて収集に出すという対応に切り替えたそうです。

対応のおかげで、排泄物のゴミはトラックで別途回収し、排泄物の汚れを避けることができるようになりました。

ただ、この対応に切り替えることができたのは、東陽中学校の避難所だけで、他のゴミステーションは生ゴミと同じ場所に汚物が混在して置かれていました。

やらなかったということではなく、被害が甚大で全員が被災者。指定避難所以外の場所で、住民同士が助け合いながら避難生活を続けるなかでは、「やりようがなかったのではないか」と、お話をお伺いしたゴミ収集員の方はおっしゃっていました。

 
 

それでも、避難者の人数が非常に多かった東陽中学校が分別を実施したことで、町野町でのゴミ収集作業時には、かなり助かったそうです。

収集時に「中身が汚物かどうか分からない」ということが、被害の拡大を招いたとのことですので、中身がなんであるかを明示して分別するだけでも、対策になるのではないかと思われます。

ゴミは出したら終わりではなく、それを収集し、運び、処理する方がいらっしゃるということを、災害時にこそ考えなければならないと改めて感じました。

ゴミ収集員の方からは、「早くトイレが普通通りになってほしい」という切実なお声をお伺いいたしました。

本記事をご覧になられているみなさまも、大きな災害時のトイレの処理について今回の発信を機に、もう一度考えていただき、もしもの時、少しでも思い出していただければと思います。

 

〇たくさんの支援へお返事を

2月から、町野町の有志のみなさまにご協力いただき、「町野町支援物資管理グループ」として現地での支援物資の配布をはじめてから、半年が経ちます。

Amazonほしいものリストの活用や、現地ニーズをお伝えしての町野町への直接支援を募るたび、これまでにたくさんの方からのご支援を賜りました。

支援開始時は、簡易トイレや土嚢袋を募っていましたが、今は夏服や熱中症対策グッズなど、今より少しよくなるものが求められるようになってきています。

 
 
たくさんの方から支援だけでなく、あたたかなメッセージをいただく機会も増え、なにか町野の人としてお返しが出来ればと、『ありがとうノート』を作成し、町野町のみなさんから、町野町を支援くださる全国のみなさまへの「お返事」を一言だけでも、と呼びかけてもらったところ、たくさんのメッセージとお写真が集まりました。

 

ありがとうノートにメッセージ寄せる 提供:町野町の有志の方 

 

 

丁寧に書かれたメッセージをご支援くださっている方々や、町野町にお心を寄せてくださる方と共有させていただき、支援のフェーズが、よりよく移り変わっているように感じました。

現地で協力を続けてくださっているみなさんのお陰で、感謝の気持ちを表す機会を作れたことを本当に有り難く思います。

 
 

〇キリコの灯りをともすために

発災から7か月、町野町の復旧は今日も少しずつ進んでおります。

夏を迎え、祭りの季節が近づくにつれ、神社の被害状況を確認するなど、キリコの救出に向けて具体的な動きが出てきました。

そんななか、7月6日、町野町曽々木地区の自治会役員会において、8月17日(土)、8月18日(日)の二日間、「曽々木大祭」が規模を縮小して実施されることが決定されました。

 
 

曽々木地区は、地震による犠牲者もなく、キリコも無事であった町野町唯一の地区です。

自治会長さんのお話では、能登の伝統を守り、町野町の精神的な復興に少しでも寄与することが出来ないかと考えての決断だったといいます。

発災直後から現地に入り、継続的な支援を続けてくださっているNPO法人 阪神淡路大震災1.17希望の灯りのみなさまのご協力を得て、クラウドファンディングへの挑戦もはじまっております。

キリコは能登の伝統であり、誇りです。

7月に開催された宇出津のあばれ祭りを皮切りに、能登では非常に多くのキリコ祭が開催されます。

町野町には、地区ごとのキリコがあり、本来であれば主に秋にキリコ祭りが行われるのですが、今年は各地区のキリコが破損し、あるいは倒壊した仮宮の下敷きになるなど、救出さえままならない状況です。

 
 

町野町は過疎化から広江・鈴屋・粟蔵が合同で祭りを実施するなど、工夫を凝らしながら地域のキリコ祭を守り続けてきました。

今回の曽々木大祭は、今年唯一となる、町野町のキリコ祭りです。

その灯火を町野町に点すため、みなさまの温かいご支援を、どうかお願い致します。

 
 

曽々木大祭でのキリコ 提供:町野町の有志の方 

 

 

MRO北陸放送では、被災地の声を集め続ける藤本さんが見つめる被災地の現状をNEWS DIGで、毎月掲載します。

藤本透
シナリオライター。アプリゲーム『ノラネコと恋の錬金術』メインシナリオライター。『ラブライブ!スクールアイドルフェスティバル』、『ラブライブ!スクールアイドルフェスティバル2』のシナリオ執筆に携わるほか、様々なジャンルでの執筆を手がける。石川県輪島市町野町出身で、石川県を舞台に描かれたアニメ「花咲くいろは」の小説版を執筆。2024年1月1日の能登半島地震発生以降、SNSを通じてふるさとの情報を日々きめ細かく発信している。

 

 

 

 

こちらもよろしくお願いします

 

 

 

 

まだまだ気の抜けない能登ですが

どうか忘れないでいてくださいm(_ _)m

 

(お借りしました)