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元日の地震により避難所生活から6日目の朝出発

通常1時間ほどの道のりを4時間かけて居住地に戻りました。

 

今現在は色々な事情がある状態で

ブログの通常更新はまだ先になりそうです。

 

今回は地震発生の日から避難所生活をした覚え書き

 

 

地震後の初めての夜

涙をこらえるのに見上げた星空が綺麗だった

(画像はネット上からお借りしました)

 

 

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2024年元日の昼

 

両親と妹夫婦との新年顔合わせの宴

そのあと自分以外の4人は空き家になってて

車で15分ほどの母の実家へ(管理を任されている)

 

このあと人生最大の危機が訪れるとは夢にも思ってなかった

 

一度目の地震、震度5でもかなり揺れた

テレビをつけて地震の情報を見ていたときに二度目に襲われた

 

PM 4:10

先程のものとは明らかに違う

経験したことない下から突き上げる衝撃と激しい揺れに

身の危険を感じて家の外に出ようと廊下に出た瞬間から動ける状態ではなかった

両親のために取り付けた手すりにしがみついているのが精一杯だった

 

築100年以上の古い実家が激しい振動に耐えれるはずもないと思った

(後で知ったことだが史上最大のM7.6)

 

あと少しでたどり着くはずだった玄関では天井まで高さのある下駄箱が倒れ

すぐ後ろでは廊下の左右にあるガラス戸やふすまが廊下を覆い尽くすように倒れ

さっきまでいた茶の間では重いはずの飾り棚が飛びはねている

 

頭上の天井が外れ、隙間からは泥のような埃が大量に降ってくる

このまま家が潰れて下敷きになることを覚悟した

 

運良く古い家は倒壊せずに揺れは治った

その隙に外に飛び出せばいいものを。。。

 

車のキーをぐちゃくちゃになった居間の床から探し出し

崩れた壁や下駄箱の下にあるはずのスニーカーを探し履いてから外に出る

 

2軒となりの方から「助けてくれ」と声がする

屋根が崩れ落ちた家が目に入る!

走って駆けつけるとおばちゃんがまだ中にいると

斜め向かいの住人が家の中を覗いている

声が聞こえる!無事だ!!!

おばちゃんは同級生の母親

高い窓からなんとか引っ張り出せた

話を聞くと~たまたまトイレにいて助かったとのこと

 

その後近くの廃校になった小学校で唯一残されていた体育館に避難

指定の場所ではなく自主避難所だがここしか居るところはない

続々と集まってくる近くの住民たち

 

自分は一旦実家に戻って貴重品や着替えなどをまとめた

だが両親のものはどこに何があるのかわからない。。。

あらためて見回した実家は言葉にならないほどの惨状

 

 

 

 

 

 

 

 

 

トボトボと避難所に戻ると遠くから歩いてくる4人

心配していた両親と妹夫婦に対面できた

 

車で15分の道のりを歩いてきたらしい

途中の道は地割れがあったり土砂崩れがあったり大変で

津波警報が出てるという声も聞こえたが

ひとりで留守番する自分が心配で急いできたと

無事に生きて再会できてよかった(>_<)

 

しかし。。。

 

母の実家は一階部分が押しつぶされて全壊らしい

父の軽トラも下敷きになったという

妹の車は傷は少ないものの倒壊家屋に囲まれて出せないらしい

そんな状況の中でも両親は

妹夫婦のおかげで九死に一生を得たとのこと

感謝感謝(;´Д`)

 

 

その日から6日の朝までの避難所生活

 

正月という時期と、ど田舎という条件のおかげで

初日から食べ物には困らなかった

 

農家が多いので米や野菜を持ってきたり

停電により冷蔵庫&冷凍庫の品物がダメになるからと持ってくる

時期的にストックがたくさんある家が多かった

体育館の大屋根から落ちて溜まった雪が冷蔵庫替わり

水がないので雪を溶かしてご飯を炊いたり味噌汁を作ったり

協力的な女性たちが炊き出し班となり機能してる!

 

BBQコンロや七輪を提供する人

発電機やポータブルバッテリーを持ってくる人

それに繋げる照明器具を持ってくる人

延長コードや携帯充電ケーブルを持ってくる人

ストーブや灯油、ガソリンを持ち寄る人々

それぞれができることをする

生まれた故郷の人たちは素敵な人ばかり

 

その夜はストーブを囲み眠れぬ夜を過ごした

何度も余震がありときどき大きな揺れも!

 

明るくなってすぐに実家に両親と貴重品を取りに行く

その最中にも何度も揺れて怖かった

大事なものだけ持って外に出ようと言ったものの

長年住んだ家の中にあるものは全部が宝物だという

気持ちはわかるが急かせて避難所にもどる

 

しかし昼過ぎに忘れ物があるというので再び危ない実家へ

これが翌日も翌々日もまた次の日も続く。。。

気持ちはわかる

 

しかしそんなことばかりもしてられない

避難所生活は働かざるもの食うべからず!?

やはり協力しないと生きていけない

 

朝は生活用水の確保に駆り出される

軽トラの荷台に大きなタライや桶を並べて

綺麗な山水が流れる用水を汲みに出かける

正直キツかったが協力しながらの作業は辛くはなかった

トイレのタンクに入れる水の確保は必須なのだ

結局のところ夕方にも同じ水汲みに駆り出された

 

(初日が寒かったのでみんなストーブ持ってきた)

 

翌日は持ち寄ったポリタンクの灯油が残り少ないので

倒壊家屋や再建不能住宅のボイラータンクへ抜きに行く

もちろん許可をとったからドロボーではない

自分の実家も住めないのでタンクを空にした

火災の心配を無くす必要があったから

 

避難所で都合の悪いことといえば

携帯電話は全くダメでテレビも無い

ラジオはポケットサイズのがひとつあるだけ

周りが山に囲まれてて情報難民

 

4箇所ある集落から出る橋はどれも段差ができて

(段差は最大で50cm)

乗用車では脱出することができない

隣の集落に行けるはずの峠道は

倒木と大きな岩が落ちてきて道をふさいでる

完全に孤立

 

避難所での共同生活は

和気あいあいとしてはいるが心の中は不安でいっぱい

それでも話し相手がたくさんいるので心強い

 

 

2日目夕方には役所に備蓄してあるカンパンと水が届く

自衛隊のタイヤがでかい4WDなら段差を乗り越えられたらしく

役所職員の案内で次の日には物資が届き始める

 

(追記)

2日目段差ができた橋をなんとか車が通れるように

避難民が瓦礫の板などを置き軽トラなどが通れる対策

大きな岩はツルハシで砕き人力で移動

倒木はチェーンソーで動かせる程度に切り移動

車1台がやっと通れるくらいに切り開いた

 

 

そういえば~

3日目夜には福井からのボランティアが物資を届けてくれた

一番助かったのは発電機用のガソリンだった

 

3日目以降は公的支援物資の種類が大幅に増えた

トイレットペーパーやウエットティッシュなどの他

パンやレトルト食品、インスタント麺、湯煎で食べれるご飯、水やお茶などの飲料水、

カイロやジュース、ヨーグルト、チョコレートなども

 

自分は6日の朝までしか避難所にいなかったので

それ以降はわかりません

しかし9日時点でも通信がダメで連絡が取れない

 

こっちに帰ってきてからも一緒にいた人たちが気になる

両親のことを頼むと言ってきたけど

非常時にはやはり自己中になるものだから。。。

 

ツイッターで検索して故郷の情報を調べているうちに

あるアカウントと繋がることができて情報共有するようになった

 

その方は地元ではなく都会に居るらしい

避難所にいた時の困りごと情報を報告していたら

 

そのおかげか?本日10日に携帯電話で通話できた!

声を聞くだけでホッとした(>_<)

 

これから先のことはまだ考えられない

ただ、自分の実家である両親が住む家が無くなった

その事の重大さがこの先

重くのしかかってくるのは間違いない

 

 

PS.

(1/27 追記)

自分は今は賃貸物件に住んでいます。

冷静になって考えたら実家に住めないということは

いずれ自分が住むはずだった家がないということ。

やはりショックは大きい。