量をやらずに質を語るな | 武井義勇(kammy)のブログ

武井義勇(kammy)のブログ

僕は、公立小学校の教員をしています。

その中で大切にしたいことや、自分の生き方を考えてきました。それをシェアしていきたいです。

いつもお読みいただきありがとうございます😊本質の追究者の武井義勇(たけいきゆう)です。


このブログを書き始めてしばらくしてから、今これを書いています。書いているうちに「これは超大作になる」と感じたので、初めに記しておこうと思いました。

いつも以上の長文になりそうです。お時間があればお付き合いいただけると幸いですが、ここで離脱していただいても構いません。つらつらと僕の考えを述べていきます。




尾石晴さんのVoicyプレミアム放送で、リスナーのカフカさんが登壇した際に語っていた言葉です。

「違和感を感じる前に、目の前のことに全力で取り組むことが大事」

これは放送中に、晴さんとカフカさんのやり取りの中で自然と出てきた言葉でした。これを聞いて僕は感激しました。

「僕の言いたかったことはこれだったんだ」

今日は、この言葉から着想を得たものを書き記していきます。


晴さんがこの言葉に対して、サッカー元日本代表の本田圭佑さんの言葉を引用されました。その言葉とは

「量をやっていない奴が、質を語るな」

というものです。



僕の思考はあるところを行ったり来たりしています。それは「量をやった方がよいのか、質を上げた方がよいのか」といったものです。


量ばかりをやって質を上げないと成長しないし、量をやらずに質を上げようとしてもベースがしっかりしていないために頓挫する可能性が高まります。結局どちらも大切だという話になるわけですが、いつももやもやしていました。



そしてカフカさんの言葉で気づきました。

「量も質も大事。重要なのはその順序だったんだ!」

ということです。


僕はブログで、自分らしく生きることや辛いことを我慢せずに逃げることを提案しています。でもこれには重要な前提があるのです。


それは「ある程度の量をこなすこと」です。


量をこなさずに自分らしさを求めたり逃げたりすると、却って本質に到達できないと考えられます。



子供たちを指導していて、いつも引っかかりを感じています。それは漢字や計算の宿題を出す時のことです。


僕は、これらの宿題には訓練が必要だと考えています。訓練とは、人から与えられた課題を必死になってこなすことです。ちなみに、これに自分の意思が加わった状態を「鍛錬」と呼んでいます。


漢字や計算は、考えなくてもできる状態にしておく必要があります。これはサッカーでいうところのインサイドキックやトラップの技術のようなものです。無意識に正確にできるレベルまで訓練しておかないと、それ以降のレベルを上げられません。


しかし最近は、これを厭う人が増えた印象をもっています。宿題で少し多めに出すとすぐに保護者からクレームが入ります。

「夜中までかかって取り組んでいます。宿題が多すぎます!やめてください。」

といった感じです。僕からしたら、多くても40分もあれば終わるようなものを課しています。それを集中していないからできないのです。自分の子供の取り組み方を見直すべきではないか、と思います。


そのような感じなので、僕は一斉一律の宿題をかなり減らしました。もう本当に最低限のものばかりを出しています。結果どうなったか。基礎知識はほとんど身に付かないです。真面目に取り組む子と集中力がない子とでは歴然な差となって現れています。


少ない宿題は、真面目に取り組む子には有効です。なぜならそのような子は質も自分で担保するからです。これが集中力のない子供たちには効果的ではないのです。


僕が質にこだわるのは、量をしっかりとこなせる子に限ります。与えられた課題をこなしていけている子は、今度は自分に合った学習方法を見つければよいのです。

これを量もこなさずに質ばかり追求する子は、結局のところ何もやらない選択をすることが多いわけです。



だから大切なのは、量と質の順序です。




目の前のことを全力でやることが第一段階です。与えられたり教えられたりしたことを、とにかく必死になってこなしていく段階がここです。

この時、質のことを考える余裕はきっとありません。目の前のことしか見えていないので、視野を広げることができません。


僕は教員初任者の時に、毎日21まで学校に残って仕事をしていました。そうやって若手で残っていることが仕事をしている感を出す方法だと信じていました。

しかし家に帰って振り返ってみると、夕方5時から9時まで「何の仕事をしたのか」をまるで覚えていないことがデフォルトでした。つまり「質」がまるでなかったのです。


この頃は自分が何をやっているのか分からない状態、いわばトランス状態で行動していました。自分だけど自分じゃない。訳分からんという感じです。こういうのを無我夢中というのでしょう。


今同じようにやれと言われたら、絶対に無理です。身が保ちません。あの頃は仕事以外に没頭するものがなかったからできたことです。


けれど、この時期を経験してよかったと今なら思えます。なぜならこの訳分からない状態があったからこそ、「無駄な仕事が何か」に気づくことができるようになったからです。



カフカさんがおっしゃった「目の前のことに全力で取り組むことが大事」というのは、この段階で右往左往する経験の大事さを語っているのかな、と思いました。


カオスがどのような状態かを知らなければ、本当の秩序を保つことができない。僕はそう考えます。


僕は初任者からの数年間の無駄を経験したから、質を選べるようになりました。大量の経験や失敗をしないとデータが蓄積されないのです。そのデータを活用するためには「経験」が何よりも重要です。


そのように考えると、今のAI台頭時代は人間の危機に瀕しているように思います。なぜならば「知識はビッグデータの中にあるから、覚える必要がない」と思い込んでいる傾向を感じるからです。

これは確かにその通りなのですが、一方で「上手くいかない、もやもやした経験や失敗」すらもなきものにしてしまいます。ここが一番人間らしい(動物的ともいえる)ところであるのに、それを取っ払って知識を得ようとしています。


さらに言えば、上手くいかないもやもやした経験をしない限り、本質的に大切なものを選ぶ力も養えません。


子供たちに学習用端末を与えて、インターネット検索を教えましたが、子供たちが活用できているかと言えば、疑問をもっています。というのも、検索をかけたとしても「字が読めない」「意味を理解していない」「正しい情報かどうかの判断ができない」からです。つまり、量をこなしていないから、何が大切な情報なのかを的確に判断する力が養われていないのです。


子供たちも当たり障りのない表現をすることはできます。けれどそこに「魂がこもっていない」のです。自分の言葉で語れない。ネットに転がっている言葉をそのままただ垂れ流しているだけです。



晴さんは常に「自分の違和感を大切にしよう」と呼びかけています。僕もそれを大切にしています。


しかしこれは「ある程度の量をこなした人」でなければできない高度な営みなのではないでしょうか。この段階は第二段階と考えられます。



ここまでのことをまとめると、第一段階はガムシャラに量をこなす段階。第二段階が違和感に気づく段階。そして第三段階が質を高める段階、です。


僕はここからさらに、バランスについても突っ込んで考えてみました。僕のテーマの1つであるバランス。その本質を三つ挙げてみます。


バランスをとるためには

「順序・軽重・タイミング」

が必要なのではないでしょうか。


第一段階、第二段階というように、ステップを変えていくことでバランスをとることをこれまで述べてきました。

それ以外にも、軽重でバランスをとることもあります。

量をこなすにしても質を上げるにしても、その時々で調整することがあります。

例えば、4月初旬は年度の切り替えで非常に忙しいです。タイムマネジメントをしようと思っても、思いがけない仕事や膨大なタスクに追われて上手くいきません。

この時に、バランスを真ん中にとろうと思っても逆に上手くいきません。この時は「質より量」と考えて、必死になって量をこなしていく時期なのです。

ゴールデンウィークになる頃にはだいぶ落ち着いてきます。体勢が整ってくる感覚になり、ルーティンワークに切り替えて、質を考えることができるようになります。


1年間をトータルで見た時、4月初旬の忙しさは全体の4割くらいを占めているのではないかと思うくらいの量です。この時に無理して質を高めようとすると、反動が大き過ぎるのです。


だからここには時間を思い切り費やします。軽重でいうところの「重」を置くわけです。

質を高められるのは夏休みです。この長い休み期間にバランスを「軽」にして、大いにダラダラします。ダラダラした後は気持ちを切り替えて、質に目を向けられるようになります。

このようにして軽重を考えながら1年間をバランスをもって乗り切ります。またこれは人生においても同じことで、ある時期には無我夢中で、ある時期にはのんびりと過ごすことがあるわけです。



バランスにはもう一つ、「タイミング」があります。タイミングは自分の意志によるものもあれば、環境から与えられるものもあります。


例えば、僕は今の所属自治体に自ら希望して行きました。隣の市だということや、市の方針に共感したためでした。


期待に燃えていた僕は、自分のやりたいようにできると信じて行きました。しかしそれはただの妄想に終わりました。意外とガチガチの集団重視の教育活動を行っていたのです。


僕は失望しました。腐りました。やる気も失って、自暴自棄にもなりかけました。この時には地に落ちていた気がします。


でも最近は上昇気流を感じています。僕の心境の変化もありますが、環境が変わってきたことも感じられるからです。僕は徐々に再び自分を開放し始めています。「時がやってきそうな気配を感じる」のです。


人間万事塞翁が馬という諺にもあるように、喜憂の変化は何に繋がっているのか分からないものです。ここにもバランスが存在していて、タイミングを正確に捉えることで、成功も失敗も起こるものなのかな、と思います。




長くなりましたが、ようやく終わりに近づきました。


僕が今回、量をやらずに質を語るなというテーマで書かせてもらった理由は、実感がこもっているからです。

僕は850記事以上のブログを書いてきました。8年半以上をかけて書いてきました。


僕は圧倒的な量をこなしてきた自負があります。質が高いかどうかは別として、文章をたくさん書いてきたという誇りをもっています。


だから文章が書けないと嘆いている子供や大人を見たときに、「まず下手でもいいから書き続けてみたらいいんじゃない?」と思います。

僕は自分の文章が上手いとは全く思っていません。ただ量をこなしてきたからこそ、文章の書き方や見え方が分かっていると感じています。質を語る前に、圧倒的な量というものは絶対に必要なのです。


量を厭う者に、その先の未来はありません。そうであるならば、たとえそれが自分にとって非合理的で苦手なことであっても、量をこなしてみることは大切なことではないでしょうか。


質ばかりを重視しすぎている現代の風潮に物申したい。それが今回の一番の主旨です。もっとみんなでガムシャラになることも、バランスをとる上で大切なことだと僕は考えます。


最後までお読みくださりありがとうございました。