教えることはただの種まきであると心得るべし | 自分の人生の舵を取れ! ⭐︎武井義勇(kammy)のブログ

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僕は、公立小学校の教員をしています。

その中で大切にしたいことや、自分の生き方を考えてきました。それをシェアしていきます。

自分の人生の主役は自分自身です。いかに生きればもっと幸せになれるのかを追究しています。

いつもお読みいただきありがとうございます😊キョウイクの探究者の武井義勇(たけいきゆう)です。



息子たちを観察していての気づきです。

息子たちは勝手に育っていってます。親が「こうなって欲しい」という期待をもって子育てしているのに、そうはならず育ちたいように育っていきます。


僕は小学校教員になりました。人に何かを教えることが大好きだからです。僕は人に教えたくて教えたくて仕方ないのに、子供たちはそれを聞きません。

「教える」という行為があまり意味を為さないのではないかとさえ考えてしまいます。



けれどやはり教えることにも意味はあるはず。ということで、今回はキョウイクを探究してみました。



人の成長というものは、比例グラフのように伸びていきません。3歩進んで2歩下がるようなこともあるし、3歩進んだように見えたのに5歩下がるように見えることもあります。また、しばらくの間ずっとそこに留まっているのではないかと思う時もあります。


成長過程に最も必要なものは「時間」かもしれません。どんなに言葉を尽くしても、体験させたとしても、身に付かない時は身に付かないものです。


そう考えると、教えることというのは「種まき」なのだな〜と思います。種をまいて、芽が出るまで水を与えて待ちます。その前には、土を耕して養分を含ませたり、日光をたくさん浴びせたりしておきます。


種をまいた後に、早く芽を出せ!と土を掘り返したり叩いたりしても、決して芽は出ません。それどころか、場合によっては種や芽が腐ってしまうこともあります。


だから人の成長も同じで、時間をかけないと芽は出てこないのだと思います。



長男は現在、体操にハマっています。鉄棒で逆上がりをしたり、マットで側転をしたり、跳び箱の開脚跳びに取り組んだりしています。


本人が自分からやりたいと言ったことが珍しかったのでやらせていますが、数ヶ月経った今でも「あ〜なんて体操は楽しいのだろう。」なんて呟くほど楽しいようです。


ただ彼は、教えてもらうことをあまり好みません。僕が細かく教えようとすると、さっとどこかに行ってしまう感じです。

また一度できるようになった技も、できる時とできない時があり安定しません。加えて、時間が経つとできなくなってしまうことも多いです。



次男には水泳を習わせています。兄の影響で、水泳を習うのが自然となるように仕向けました(笑)。初めは嫌がっていましたが、潜れるようになってからは意欲的に取り組むようになりました。


ただ、彼はやはりあまり水泳が好きではないらしいです。長男の体操のように、水泳の日を楽しみにしていることはありません。そして楽しいか?と聞いたところで好きじゃないと答えます。


そんな彼は今、けのびに取り組んでいます。先月の検定では、怖がって一人でけのびができなかったことで不合格になってしまいました。ショックが大きかったようです。


彼はそれなりに運動神経もあるので、僕はけのびを一人でできると思っています。けれど怖がってやりません。できるのにやらないのです。


あまり好きなことではないので、勇気が湧いてこないのだと思います。僕は彼の成長を待つことにしました。



教員として17年間働いてきた感想ですが、多くの子供たちは教えられることをあまり求めていない気がします。特に「自分で考えて行動する子」にとっては、教えることが邪魔でさえあります。


知識は自分の経験から身に付くものです。だからまずやってみること。そして上手くいかなかったら考えて修正してみること。このようにして知識を獲得していきます。


その過程で、教えようとする者が現れると邪魔でしかありません。教える立場から考えて、教えるという行為は「自分を満たすための行動」です。つまり、教えることによって相手の変化に影響を与えて、その効力を感じたいという欲の表れなのです。


当然このプレゼントを快く受け取りたくない人が出てきます。プレゼントしている側はよかれと思って贈っているけれど、もらう方はいい迷惑です。願い下げです。


この点に関しては、水谷アスさんのVoicy【2024.3.18】の回で詳しくお話されているので、よかったら聞いてみてください。


子供たちには、なるべく教えるということをせずに成長してもらいたいものです。


しかし、教えることが効果を発揮する時も出てきます。それはどんな時かというと、本人が伸び悩んだ時です。


自分でやってみると上手くいかないことがたくさん出てきます。その時「どうしたらいいのか分からない」という状態に本人がなります。この時が教え時です。


本人がこの状態になると、答えをオートマティックに探すようになります。スポンジの水が枯渇し、早く吸い込みたくなっています。


この時に「教える」が最大の効果を発揮します。ここで背中を後押しするヒントをポンと与えるわけです。

ちょうど、カラッカラに渇いた地面に芽吹いた植物が、水を欲するかの如く吸収しようとします。


この時を待っていましたとばかりに待つのです。そこまで耐えるのです。教えたい衝動を抑えて、渇くまで待ちます。


「この子は渇いた」と思ったその時を見極めて、さっと助け舟を出します。すると力を得て再び自走を始めるわけです。


この時注意しなければならないのは、与え過ぎないこと。与え過ぎると伸びるものも伸びなくなってしまうからです。




教員をしていて悩ましいのは、この時をいつでも待てるわけではないことです。子供たちの成長を悠長に待っていられないことがとても多いです。


そういった時には、パワープレーをすることもあります。強引に教え込むこともあるのです。

ただこれも必要なことです。有限の時間の中で、ある程度の成果を上げなければならない時に、待つ時間ばかりをとることはできないからです。


とは言え、やはり基本は「教えることは種まきである」ということを忘れてはなりません。


無理にやらせたり教えたりしてみたところで、効果は薄いことが多いし、時にはそれがマイナスに働くことも多くなります。


それよりも、子供たちに繰り返しやらせることや自分で工夫させることの方が大切です。やってみて、上手くいかなかったら修正して、工夫して次に活かす。これを繰り返すことが成長の早道であると思うのです。

その過程で、困った時に助け舟を出す。これが教えることの本質ではないかと僕は考えています。


早く芽を出して欲しいと願うばかりに、余計なことをしてしまうことがごまんとあります。だから、教えることは種まきであると心得るべしです。教えることだけが教育であるわけではありません。待つということも大切なのです。


ついつい教え過ぎてしまうよ、という方は、これを読んで自分の胸に手を当てて考えてみてください。きっとそれは自分を満たすためにやっていることの方が多いですから。


子供の成長を、ゆっくりと見守ってみたいものですね。


最後までお読みくださりありがとうございました。