応援パッションを燃やすとき | 自分の人生の舵を取れ! ⭐︎武井義勇(kammy)のブログ

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僕は、公立小学校の教員をしています。

その中で大切にしたいことや、自分の生き方を考えてきました。それをシェアしていきます。

自分の人生の主役は自分自身です。いかに生きればもっと幸せになれるのかを追究しています。

いつもお読みいただきありがとうございます😊本質の追究者の武井義勇(たけいきゆう)です。


今日は澤円さんのVoicy【2024.1.17 ロジカルシンキングでは説明できない話】からの学びです。


この回の澤さんのお話は、ご自分はアントレプレナーシップをもっていないけれど、アントレプレナーシップをもった人を応援したいというものでした。そして澤さんのパッションはそこにあるということです。



僕はこのお話を聞いて、「なるほどな〜。パッションをもつと言っても、いろいろなパッションがあるのだな〜。」と思いました。


「パッションをもつ」というと、すぐにアントレプレナーシップをイメージしてしまいます。スティーブ・ジョブズとかイーロン・マスクなど、ぶっ飛んだ天才が思い浮かび、常人離れしたパッションをもっていて、周りの人にも目をくれず、開拓者精神で突き進む人をイメージします。


けれど澤さんがおっしゃるように「パッションの方向性が違う」のであれば、いろいろなパッションがあってよいのだと思いました。

そこで僕は、自分が何だったらパッションをもてるかなー、と考えてみました。そして出てきた答えが

「応援パッションなら、僕にも強くあるぞ」

というものでした。



澤さんは、アントレプレナーシップをもった人を応援することにパッションをもつとおっしゃっていました。

僕の場合は、不器用だけど一生懸命に生きている人を応援することにパッションをもつように感じました。


僕は、いわゆる成功者のマインドをもった人を応援することにあまり興味がありません。それよりも、何だか人生上手くいってないのだけど、一生懸命にもがいている人や前向きに生きようとしている人を応援したい気持ちを強くもっています。


この部分が澤さんの応援パッションと微妙に異なるところだと思っています。



僕が応援パッションを燃やすのは、物事に真剣に取り組んでいる人を見た時です。


例を挙げながら説明します。


僕は教員をしていますが、「この子のためならば、自分の時間を割くことを厭わない」と思える子がクラスに必ず何人かいるものです。

このような子が何かをしようとする時、惜しみなく勇気づけをしますし、手助けをしたいと思いますし、フィードバックを丁寧にします。

クラスの中で、あまり目立たないのだけど責任感が強く、クラスのみんなのために行動してくれる子がいます。僕はこのような子供たちを贔屓します。クラスの中で誰もやろうとしないことを引き受けてくれたり、学習に前向きに取り組んでいたり、みんなの役に立とうと率先して動いたりしてくれます。


僕はこのような子供たちが大好きです。その貢献感に、自分もできる限り感謝をもって返したいと強く思います。

だからそのような子供が、何かを失敗した時に誰かに責められたら、その責めた子供たちを攻撃します。

「◯◯さんはさ、みんながやりたがらないことを引き受けてくれたのよ。それで上手くいかなくて失敗しただけなの。それを責めるってどういうことなの?あなたはさ、この仕事を引き受けようとしなかったじゃない。だったらそんなこと言えた義理はないよね!」

といった感じです。僕が盾となってその子を守ろうと思います。


また、そういった子が作文を書いてきたりすると、その返信を他の子よりも多く書くようにします。

「あなたはいつもみんなのために行動してくれるから、私は助かっているよ。あなたがそのように一生懸命やってくれることで、クラスがとても明るい雰囲気になっているんだ。だからあなたは何となく上手くいっていないように感じているようだけども、私からしたらできていることの方が多いよ。自分ができていることをもっと見つけてみるといいよ。」

といった感じです。


昨年度、クラスのことについて真剣に考えてくれたOさんという女子がいました。その子が書いてきた作文には、A4裏面一杯に返信をしました。おそらく、嬉しいを通り越して、気持ち悪かったかもしれません(笑)


それくらいパッションをもつと自分のリソースを注ぎ込むことができてしまえるわけです。




前回の記事で、僕は世界平和を目指していることを記しました。僕が人一倍貢献感をもっているという話をしました。今日の記事はその具体的な様子を綴っています。


僕が応援パッションを燃やす時には、自分が最も貢献感を発揮している時だとも言えます。


その対象者は、僕が尊敬して止まない人たちです。何事にも一生懸命に取り組む人たちです。僕が大好きだと思える人たちです。



一生懸命な人を見ると、無意識にスイッチが入ります。そして、どこまででも自分のリソースを注ぎ込んでしまえるのではないかと思うことができるのです。



僕がブログやVoicyにコメントをたくさんするのは、この応援パッションが発動するからです。僕に多大なる学びという価値を提供してくださる方や、僕と同じように修行されている方を見ると(読んだり聞いたりすると)、コメントせざるを得なくなってしまうのです。うずうずして止められません(笑)


その人が成功しているとか、顔が広いとか、自分の利益に繋がりそうだとか、一切考えていません。僕が僕の思いを届けたいと感じた人に向けてだけ、僕はコメントをします。

当然、このコメントには「共感」や「尊重」「称賛」などの思いが込められています。僕からのコメントを受け取られた方は、僕が応援パッションを燃やしているのだと思って好意的に受け止めてくださいね(笑)



何なんでしょう。不思議です。僕は小さい頃からこの応援パッションをもってきたように思います。小中学生の頃は、憧れの友達がいると、その人が何か失敗したら励ましたりするだけでなく、誰かに責められた時には僕が代わりに戦いに向かっていっていました。

「⬜︎⬜︎のことを悪く言うな〜!!」みたいな。

ワンピースの世界観ですね(笑)

僕は、自分が誇りに思うものを傷つけられるのが許せないのです。それは自分自身のプライドに対してもそうですが、憧れの存在に対しても同じです。


僕の中に、大切なものを傷つけられたら反撃する、といった美意識のようなものが存在するのかもしれません。

今書いていて気づきましたが、僕は義理とか人情とかに弱いです。戦国時代の「二君には仕えぬ!」みたいな武将が大好きなんですね。


だから「合理的に考えれば」Aという道を進んだ方がよいのに、不器用だからBという道を選んでしまった人を放っておけないのです。そういう誇り高い生き方をしている人を僕は尊敬し、愛しています。


僕は器用な生き方をしている人よりも、不器用だけど一生懸命に生きている人を大切にしたいです。僕が応援パッションをもつのはそのような人たちです。

アントレプレナーシップをもっているかどうかよりも、自分の人生に真剣に向き合っている人なら誰にでも、僕は自分の救いの手を差し伸べていくのです。


最後までお読みくださりありがとうございました。