いつもお読みいただきありがとうございます😊本質の追究者の武井義勇(たけいきゆう)です。
好奇心がない人なんて世の中にいるのでしょうか?それは本能に逆らうことなのではないでしょうか?
これは最近僕が疑問に感じたことの1つです。今日はこのことを掘り下げていきます。
教育活動をしていてよく感じるのは、いわゆる学力の高い子は好奇心が旺盛です。いろいろなことに興味をもち、何にでも面白がります。
当然学校で教えることは知的なものばかりなので、好奇心旺盛な子にとっては宝の山です。
一方で、学校で教わるようなものには興味を示さない子も多いです。そのような子からは知的好奇心をあまり感じません。いわゆる学力は低くなる傾向にあります。
学校で学ばせるものは、過去からの文化の継承の目的で与えられたものです。ということは、それは誰にでも必要なものだと僕は考えています。
学校で与えられるものを「必要ない」と切り捨てる人がいます。もちろん、それを駆使してエキスパートになる必要はありません。でも「知っておく程度」には必要だと思うのです。
過去に、誰かの好奇心によって得られた知識の総体が、今の学校教育にも根付いています。だから聖徳太子という人を知っておいて欲しいし、バッハといったら音楽家だと咄嗟に気づいて欲しいし、分数の概念を使ってケーキを切り分けられるようになって欲しいわけです。
では、そういったものに好奇心を示さないことは、個性と言えるのでしょうか?自分の得意なことや好きなこと「だけ」を学習すればよいのでしょうか?
僕はそれがとても不自然に思えてならないのです。現代は個性を活かす時代だと言われていますが、知識や技能が1つに偏っていることが良いことだと僕には思えません。
サッカーで例えるならば、自分はゴールキーパーとして生きていくから、ドリブルやヘディングの技術はなくてもいいと考えるようなものです。
確かにゴールキーパーとしての技能を特化して鍛えていけば、その道のプロとして活躍できるように思います。ただあまりにも幅が限定されすぎて、生きづらくないのかな?と老婆心ながら感じてしまいます。
他の知識や技能を、本気でいらないと思ってますか?それはただ面倒なことから逃げているだけではないのですか?
僕は好奇心がないのは不自然だと考えていて、本来ならばもっていていたものを、どこかで諦めたり奪われたりした結果が今なのではないかと思うのです。
学校の教育活動で問題なのは、子供を点数で評価してしまう点です。簡単に言えば、通知表を出して評定を出さなければならないから、テストを使って評価するのです。
だったらテストなんて辞めてしまえばよいじゃないか、と言われるかもしれませんが、そう簡単にいかないから問題になっているわけです。
この点数で評価するシステムは、子供の好奇心を奪います。子供の好奇心を奪わないためには、評定をつけることを辞める覚悟が必要です。
子供たちはきっと、不自然なのではなく「不自然にさせられた」のだと思います。社会が求めることに答えられなさすぎて、自信を失ってしまった結果なのだと考えられます。
そしてそういう子の家庭では、同じように親も好奇心を奪われ続けたのかもしれません。好奇心がある状態を知っている人は、子供の好奇心を奪うようなことはしないはずだからです。
となると、子供の好奇心を大切にすることは社会問題と言えます。
これを学校や家庭だけの問題にせず、構造として考え直す必要があると僕は考えます。誰かのせいにするだけでは解決しないものですね。
最後までお読みくださりありがとうございました。