先日、ネットの記事で、「脱不登校」という題名の記事を読んだ。
内容としては、どうやって子供を学校に行かせるかの方法論が、
書いてあるのだが、僕は方法論の「それ」よりも、「脱不登校」というタイトルに
喉の奥が重くなるような違和感を感じた。
僕は、元々高校を休んでいた経験がある。
野球が大好きで、そこそこ上手だったので、
地元じゃまあまあ強い高校に行っていたが、練習について行けず、辞めたのをきっかけに学校に行かなくなった。
「その後」、僕は高校を辞め通信制高校に行き、無事卒業をして、結婚し
今は平凡な大人として生きている。
人生100年時代だしもっと、自分のスキルを高めないといけないと思いつつ、よく昼寝をしている。
「そんな感じ」の人間だ(笑)
思い返してみると、僕の場合、学校は「行けなくなった」と「行かなくなった」の半分半分だったとの認識でいる。
具体的に言うと、一つは、高校で野球を辞めたとき、「野球部を辞めた人間」と見られるのが恥ずかしく
教室に居づらい、監督に辞めるというのが怖いというのがあり、段々と「行けなくなった」。(今考えると自意識過剰だが・・(笑))
もう一つは、「野球をしに高校に来たのに、今さら一般生徒に交じって高校生活はあり得ない」と思い
「行かない」という気持ちを持っていたのも事実であった。
まあ、ただ、当時の僕がどういう考えを持っていようと
世の中の人達は、当時の僕を「不登校の人」と呼ぶんだと思う。
皆が不登校と思う基準は恐らく変わってないと思うし、まあそこはべつにもういいかなと思うが、
僕が嫌なのは、世間の雰囲気が「脱不登校」の本のタイトルから
分かるように「不登校=駄目な事」、「脱不登校=学校に行けない」の構図が
いまだに蔓延っているこの感じが嫌だと思っている。
まず「不登校=駄目な事」だが、
僕としては【学校ってマジで本当に行かないといけないいけないんだっけ?】と思っている。
だって、体の調子が悪くなったり、自分の器から涙がこぼれてしまったり、
下手したら死んでしまうぐらい苦しむなら、もういかんで良いと思う。
自分の人生の時間って決まっていて、何かを心配して自分の時間を生きていけないなんて
それは、とても辛い事だなと思う。
行かんでええやろ。と僕は思ってしまう。
次に「脱不登校=学校に行けない」は、僕は間違っていると思う。
共感してくれる人もいると思うんだけど、「行けないのではなく、行かない」という気持ちもある。
人によっては、無意識かもしれないが、体が「行かない」という選択をしているのである。
勝手に「100%行けない」にするなよと、なめんなよと僕は思う。
(もしかしたら、俺が勝手に思っているだけかも・・。笑)
最後になるが、そもそも不登校は「脱する」必要なんてないと思います。
だって別に「悪い」事ではないし。アル中とか、薬とかなら「脱」を使う意味がわかるけど。
学校行って、自分の時間を生きていけないよりも、
自分が頭の中で抱えている気持ちと向き合ったり、向き合えなかったり
そういう時間の方が大事だと思っています。
ここまで書いたのは、あくまで僕の感想です。