姫路城に、頼山陽の漢詩「姫路懐古」及びその下し文が掲げられている。
漢詩
五畳城楼挿晩霞
瓦紋時見刻桐花
兗州曽啓阿瞞業
淮鎮興堪匡胤家
甸服昔時随臂指
勲藩今日扼喉牙
猶思経略山陰道
北走因州路作叉
漢詩「姫路懐古」の下文をWordファイルにしてルビを振り、フォント書体やフォントサイズなどを変えて文体を整えてから印刷した。
これに詩吟の旋律を書き込み、スキャンしてからペイントアプリに読み込み、所要の修正を加えてからJPEG画像として保存した。
作者:頼 山陽(安永九年(1781)十二月二十七日~天保三年(1832)九月二十三日)
江戸時代後期の歴史家・思想家・漢詩人・文人。
父の頼春水が江戸堀北(現大阪市西区江戸堀の金光教玉水教会付近)に私塾「青山社」を開き、山陽はこの地で誕生した。
幼名久太郎、実名襄(のぼる)、字は子成、山陽、三十六峯外史と号した。
文政四年(1821)、藩の財政を立て直した家老の河合道臣は姫路藩主酒井忠実から阿保村の幡下山を与えられ、道臣はこの山を仁寿山と改名して麓に仁寿山黌(じゅざんこう)を開いた。
頼山陽や猪飼敬所、森田節斎などが道臣に招かれて講師を務め、国学・漢学・医学などを教え、尊皇攘夷論者を多く輩出した。
天保年間に入った五十一歳頃から健康を害し喀血を見るなどして容態が悪化する中でも著作に専念し、天保三年(1832)に死去。享年五十三。
山田風太郎著『人間臨終図巻』によれば山陽は最後まで仕事場を離れず、手から筆を離したのは実に息を引き取る数分前で、死顔には眼鏡がかかったままであったという。