天文四年(一五三五)十二月五日に岡崎城主松平清康が殺害された時、嫡嗣子仙松(幼名仙千代)は十歳(御系譜)とするものと、十三歳(三河物語や三州八代記古伝集)とするものがある。
十三歳なら清康が家督を相続した大永三年(一五二三)の生れということになるのでこれはあり得ない。
また、広忠の母は青木貞景の娘とするのが通説とされているが、貞景の娘は清康横死後の生れであり西郷弾正左衛門信貞の孫に室となっている。
大永四年(一五二四)又は大永五年(一五二五)に松平清孝が妙大寺城主西郷弾正左衛門信貞の娘春姫の婿となって妙大寺城主になったとされており、この時に清康と名を改めたものと思われる。
広忠が大永六年(一五二六)四月二十九日の生れとされていることから、母は正室春姫でなければ無理がある。
清康の継室は青木加賀守弌宗とされ、その娘は評判の美貌で富とも満とも呼ばれ、三河寺津城主大河内左衛門元綱の養女として刈谷城主水野藤七郎忠政の継室となったが、清康は忠政の継室を自分の継室にしたいことを忠政に申し入れて離縁させ、源次郎信康及び碓井姫(松平正忠室)を儲けたとされる。
信康は天文九年(一五四〇)六月六日に安祥城が織田信秀に攻められた時兄広忠の命により応援に出て安祥城門外で城主松平長家などと共に討死した。
清康の横死後、広忠が叔父の桜井城主信定に殺害されることを恐れた家臣団は阿部定吉に広忠(当時は仙松)を連れて密かに城を抜け出し、仙松の伯母を妻とする吉良持広を頼らせた。
殆どの史料で、この時持広は吉良氏の所領がある伊勢国神戸で広忠を匿ったとしているが、これは三河物語にある【拾三にならせ給ふ廣忠之御供申て伊勢之國え落行給ふ。~中略~拾四迄伊勢に御座被成候成】の件が誤伝の誤り根源と思われる。
伊勢国神戸なら伊勢国河曲郡神戸郷(現三重県鈴鹿市神戸)が考えられるが吉良氏が伊勢国に所領を有したことはなく広忠が伊勢国へ行った形跡は窺えない。
実は「伊勢神戸」は地名ではなく「伊勢大神宮神戸部」のことで、伊勢神戸のことを大久保彦左衛門忠教が思い誤って「伊勢国神戸」としたものがその後の史料に採用されて誤伝承になったようである。
伊勢神宮は各国に神領地を有しておりその神領地及び神領地での収穫物などの管理を行ったのが「伊勢大神宮神戸部」でこれを略して「伊勢神戸(イセカンへ)」と呼び記された。 延喜式四巻に「伊勢大神君封戸 参河國廿戸 右諸国~中略~伊勢神戸百姓者~以下略」があり、日本記五巻四丁に「神地神戸(カントコロカンヘ)」と読まれている。
和名抄安加比呂に【大神宮御帳にて今年献じたるは来年用ゆると云 但し三河に大神宮封戸の地廿戸有り古来其封戸の地より調の絲を献ず其封戸の地を神戸と云】とあり、東鑑に「御神領三河国飽海本神戸、新神戸、渥美郡大津神戸、伊良湖神戸云々」などがある。
古の幡豆郡には「饗庭御厨」(饗庭村内で現西尾市吉良町饗庭辺り)、「外角平御厨」(蘇美・角平で後に豊国村となり現額田郡幸田町須美及び西尾市吉良町津平辺り)、「生栗御薗」(六栗で後に豊国村となり現額田郡幸田町大字六栗辺り)、「外蘇美御厨」(嵩見で現額田郡幸田町須美辺り)などの伊勢神戸があった。
吉良持広は駿河国へ向かう前に、桜井城主信定が広忠を討ちに来た場合のことを考えて「所領のある伊勢国」ではなく「所領内にある伊勢神戸」に広忠を匿わせたということであろう。