熊谷氏

 平貞盛の五代後胤盛方の子直貞(1126~1145)は、武蔵国熊谷郷を本拠とし、その郷名に因んで名字を熊谷と改めその祖となった。

 一説に、宣化天皇の後裔丹治姓を称し、その庶流の熊谷直季を祖としその曾孫が直貞ともされる。

 康治元年(1142)、直貞は二女四男を残して十七歳で亡くなり、二人目の男児は当時二歳(永治元年(1141)二月十五日生れ)で、直貞の母の姉を正室とする義伯父久下直光夫妻に育てられた。

 この男児が、平家物語の平敦盛を討ち取る件で現れる熊谷次郎直実(1141~1207)である。

 

 三河熊谷氏略系図

 熊谷次郎直実―直家──────────────────────────┐

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└直重「(三河熊谷氏祖)─常盤(新田義貞室)田義貞室)」は誤り) ────┐

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└直忠─直貞─直鎮─直重(三河熊谷氏祖)┬常盤(新田義貞室)─某

                    └直氏─重直─清直─長直─重実─┐

┌───────────────────────────────────┘

└実長┬直安

   └正直

 

 三河熊谷氏

 平家物語に登場する熊谷次郎直実(1141~1207/享年67)の子が直家(1169~1221/享年53)で、その子直重(1190頃の生れ)は、史料に「三河熊谷氏祖で、その女常盤は新田義貞(1301~1338)の室となった」とあるが、直家の子の「直重が三河熊谷氏の祖で、その娘が常盤」とあるのは誤りである。

 

 直重の子直忠(1215頃の生れ)を経てその子直貞(1240頃の生れ)と続き、直貞は伯父熊谷直方の養子となって、信州坂部熊谷氏の祖「熊谷家伝記」となった。

 直貞の子直鎮(1265頃の生れ)は、足利高氏が配流先から脱出した後醍醐天皇の誘いを受けて、元弘三年/正慶ニ年(1333)四月に領知の丹波国桑田郡篠村(現亀岡市篠町篠)で挙兵し入洛した時、高氏に従った。

 高氏は、五月七日に六波羅探題を滅亡させ、後醍醐天皇から高く評価されて褒賞され従四位下に叙されるなどした後、更に八月五日には従三位に叙されるなどして、後醍醐天皇の諱尊治の偏諱も賜り名を尊氏と改めた。

 直鎮は、尊氏から京での武功により三河国八名郡(現新城市及びその豊橋市北部の豊川右岸側辺り)の地頭職を与えられた。

 直鎮の子は熊谷次郎直実の孫の直重と同名の直重(1290頃の生れ)で、この直重が八名郡に居住するようになって三河熊谷氏の祖となった。

 直重の子直氏(1315頃の生れ)が熊谷氏の嫡男で、その姉常盤(1306頃の生れ)が新田義貞(1301~1338)側室である。

 常盤と義貞との子新田某(1320頃の生れ)は父義貞の死後、母方の縁で義貞と敵対関係にあった尊氏に仕えたが何者かの讒言により尊氏の信用を失い、駿河国周智郡(現浜松市天竜区)の足利氏族桃井氏や、三河国設楽郡の多田氏及び田辺氏などを頼って隠棲しながら流浪した後、母方の伯父である熊谷氏の養子となって信濃国伊奈郡坂部村(現下伊那郡天龍村)に根を下ろし、熊谷氏の祖なったとされる「熊谷家伝記」。

 直氏ー重直(1345)頃の生れ)ー清直(1375頃の生れ)ー長直(1405頃の生れ)と続き、直鎮から六代後胤の兵庫頭重実(1435頃の生れ)が八名郡宇利庄へ移り住んで、晩年の文明年間(1469~1487)に宇利城を築城したと伝えられる。

 重実の子実長(1465頃の生れ)は今川氏親(1471~1526)に従属し、享禄年間(1528~1531)に松平清康に攻められた。

 清康勢が難儀している時、城内で火の手が上がり、これにより城内が混乱して清康は宇利城を攻め取ったが、この火は予め宇利城主の家臣として潜入していた清康の家臣が放火したものとされている。

 

 実長は自害したとも裏山伝いに逃げ延びたともされているが、清康の城攻めは城主を従属させることを目的としていたようで、城主が向かって来ない限りこれを討ったとか、城主が自害したとされる例も殆ど見えない。

 また、文明十三年(1481)に熊谷摂津守実長が建立させたと伝えられる慈廣寺(現新城市中宇利の曹洞宗乳峯山慈廣寺)に「戒名高賢院殿良嶽宗俊大居士 享禄四年十月二十日 宇利城主熊谷備前守実長殿」の位牌がある。

 これらのことから、実長及び正直(1495頃の生れ)は、城主は家臣に城内へ火を放たさせ、父と共に煙幕を利用して裏山伝いに逃れて、熊谷氏の支族である額田郡高力村(現額田郡幸田町大字高力辺り)の高力城主を頼ったものと思われる。

 

 実長は、清康に攻められ落ちてから二年後の享禄四年(一五三一)十月二十日に亡くなり、正直は名字及び諱を変えて高力直長を名乗り清康に従属した。

 高力氏は、直長の子重長を家祖とし、嫡男安長と共に森山崩れのあった天文四年(1535)に織田信秀と戦って父子共に戦死した。

 幼かった安長の子清長は安長の弟重正に養育され、松平広忠から代々松平及び徳川氏に仕え、大名家後旗本家として存続した。