三河守護となった足利義氏とその支族仁木義長など

 鎌倉時代の源頼朝(1147~1199)は、元暦元年(1184)八月六日に弟の範頼(1150~1193)を三河守に任じた。

 正治元年(1199)には、安達盛長(1135~1200)を三河守護(任期1194〜1199)に任じた。

 

 清和源氏の一族で足利氏の祖義康の子に義清(1149~1183)、義長(?~1183)、義兼(1154~1199)及び義房(?~?)の兄弟がおり、義清の子義実の子が実国及び義季の兄弟で、義兼の子が義氏(1189~1254)ある。

 足利義氏は、承久の乱(1221)での戦功により元九条家領であった三河国幡豆郡吉良荘(現西尾市吉良町辺り)が与えられて三河守護(任期1221~1252)に任じられ、幡豆郡横須賀郷(現西尾市吉良町)に居館(後に東条城と称されるようになった)を築いて居住した。

 

 義氏は矢作東宿(妙大寺郷)に守護所を設置して三河守護代を置き、額田郡公文所も置かれるようになったものと推定される。

 守護代が政務を行う守護所は改築時に守護代の館を兼ねるものとなって明大寺館が築かれた(後の明大寺西城址(現現岡崎市明大寺本町三丁目三十三番辺り)。

 

 義氏は伯父の子実国及び義季の兄弟をこの地に配置し、実国は三河国額田郡仁木郷(現岡崎市仁木町辺り)に居住して仁木太郎実国と名乗って仁木氏の祖となり、義季は隣接する同郡細川郷(現岡崎市細川町辺り)に居住して細川次郎義季と名乗って細川氏の祖となった。

 足利義氏の庶子長氏(1211~1290)は吉良荘に居住してその荘名に因んで吉良氏を名乗りその祖となって、義氏の嫡嗣子泰氏(1216~1270)は家督を継承することなく三十六歳の時無断で出家したことで廃嫡され、義氏の家督は泰氏の子頼氏が継承した。

 

 吉良長氏の嫡嗣子満氏(1240頃~1285)及びその子孫は代々吉良荘を継承し、満氏の次弟国氏(1243~1282)は幡豆郡今川荘(現西尾市今川町辺り)を分与されて本拠とし、今川四郎国氏を名乗って今川氏の祖となった。

 

 足利氏一門の末流で地位は低かった仁木氏は実国-義俊―義継―師義―義勝―義連・頼章・義長及び頼勝(頼鐘)の兄弟、と続き、南北朝時代に実国の玄孫義勝の子頼章(1299~1359)及び義長(1301頃~1376)兄弟が足利一族として尊氏及び直義兄弟に属して転戦した。

 

 建武三年(1336)二月十一日に摂津国豊島郡で新田義貞軍と戦って大敗した足利尊氏は京都を放棄して九州に下り、四月には一色範氏などに九州を任せて東上し、残留した一色範氏などは在郷の菊池氏及びその支族の西郷氏らと戦い南朝勢力の抑圧に務めた。

 仁木頼章は丹波国に留まって尊氏の再上洛へ向けて軍事行動を展開し、建武三年(1336)五月に尊氏が東上して摂津国湊川で楠木正成らとの戦った時はこれに合流し、六月には新田義貞を破って京都を奪還した後に、丹波国守護(1336~1343)に任ぜられた。

 

 暦応元年/延元三年(1338)に尊氏が征夷大将軍に任じられて室町幕府の初代将軍になると、仁木頼章は弟義長らとともに越前国や河内国など各地を転戦した。

 義長は京都に上り備後国守護(1338~1339)に任ぜられて、その後、遠江国(1339~1343)、伊勢国(1342~1349)、伊賀国(1346~1347)及び侍所頭人などに任じられた。

 

 正平五年/観応元年(1350)十月二十六日に尊氏の執事高師直と尊氏の弟直義の確執により尊氏及び直義の兄弟が争った観応の擾乱(1350~1352))が発生すると、頼章は弟義長とともに一貫して尊氏に属して直義との戦いに活躍した。

 正平六年/観応二年(1351)二月二十六日に高師直が直義派の上杉能憲勢に殺害されると頼章が後任の幕府執事(1351~1358)となり、再び丹波国(1351~1352)の守護に任ぜられるとともに丹後国(1351~1352)及び武蔵国(1351~1352)と合わせて三ヶ国の守護に任ぜられた。

 

 同年(1351)、弟の義長は三河国(1351〜1360)に任ぜられるとともに、再度伊賀国(1351~1360)及び遠江国(1351~1352)の三ヶ国の守護にも任ぜられ、翌年(1352)、遠江国に変えて伊勢国(1352~1360)の守護に任ぜられた。

 仁木兄弟は一時六ヶ国の守護となり幕閣の最有力者となったが、義長は傲慢や贅沢が際立つようになり、細川清氏の保有地に造作を企てたり、土岐頼康と口論を起こすなど諸将と諍いを起こすことが多くなった。

 延文三年(1358)に尊氏が死去すると、頼章は執事を辞職(1358)し翌延文四年(1359)に死去した。

翌延文六年(1360)に義長は三河国、伊賀国及び伊勢国三ヶ国の守護職を失い、貞治五年(1366)に伊勢国の守護職に就いたが一年にも満たなかった。

 

 康応元年(1389)に土岐康行の乱が発生すると康行の伊勢国守護職が没収されて、義長の子満長が伊勢守護職に任ぜられたが、土岐康行の乱終息後の戦後処理で康行は伊勢国守護職に復帰したが一年にも満たず満長が再任された。

 

 室町幕府将軍の足利義稙(1466~1523)が一門の仁木兵部少輔を伊賀守護として任命したが、伊賀国阿拝郡柘植郷(現伊賀市柘植町)の土豪柘植氏は仁木氏に従わず、兵部少輔は柘植氏を攻めて逆に討たれ、後にその子が攻めたが退けられた。

 仁木兵部少輔は義長の子満長の後胤で満將―教將―成將―貞永―高長―晴国と続いた高長とその子晴国ではないかと思われる。

 大永年間(1521~1528)に柘植氏と抗争して敗れ、仁木氏は歴史史料に登場しなくなった。