1.清和源氏義光流平賀氏族西郷氏

 清和天皇―貞純親王―経基王―源満仲―頼信―頼義―義光―平賀盛義―義信―大内惟義―維信―維時―惟時-信治-信胤

 大内惟義は、伊賀国守護となり、伊賀国大内郷を領し大内を称した。

 大内惟信は、承久の乱が勃発し後鳥羽院らの京方が挙兵すると、後鳥羽院の下へ馳せ参じ京方として鎌倉幕府軍と戦い、敗戦して消息を絶ったことで源氏御門派平賀及び大内両氏は滅亡した。

 大内惟時の系統は、堂上家竹内家となった。

 大内惟時の孫信胤は、碓井姓西郷氏の当主西郷忠昌(長屋頼景の子)の婿養子となった。

 その子孫は、盛信―正治―正隆―盛隆―盛正―正行―正則―信員―「正員・正勝・照員・正忠・俊員兄弟」―正勝の子「元正・清員・勝茂・信正・清勝兄弟」-「元正の子「義勝・正友兄弟」・清員の子「家員・員重・守勝・養女愛兄弟」兄弟」―家員の子「忠吉・康員・正員兄弟」-正員の子「延員・末員・用員兄弟」-以下省略と継いた。

 この系統が、信濃源氏平賀氏族西郷氏(三河源氏)で、碓井姓西郷氏とは別系統として八名郡に存在した。

  十六世紀に駿河の今川氏(今川氏親(一四七一~一五二六)-氏輝(一五一三~一五三六)・義元(一五一九~一五六〇)―氏真(一五三八~一六一五))が戦国大名として台頭すると八名郡の西郷氏はこれに服した。

 亨禄二年(一五二九)五月、西三河の松平清康が東三河国今橋城を攻落して、全三河を従える勢いとなっていった。

 文正十八年(一五九〇)、家康の関東移封時に家員が下総国千葉郡生実(現千葉市中央区)に五千石を与えられて三河の信濃源氏流西郷氏源姓西郷氏の宗家は絶えた。

 元和六年(一六二〇)九月、正員が安房国東条(現千葉県鴨川市東町)に五千石の加増を受けて一万石の大名となり東条藩が立藩されて東条に陣屋を構えた。

 

 3.略系譜

 源頼義─義光─平賀盛義─義信(一一四三~一二〇七)───────────┐

┌────────────────────────────────────┘

└大内惟義(一一六五頃の生れ)(正室は藤原秀宗の妹)───────────┐

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├惟信(一一九〇頃の生れ)────────────────────────┐

│  摂津国守護は大内惟義(一一八五~)及びその子惟信(~一二二一)と継承│

├惟親                                  │

├家信                                  │

└惟家(義海)                              │

┌────────────────────────────────────┘

├惟忠──────────────────────────────────┐

│   帯刀左衛門尉 美濃国目代 承久の乱(一二二一)で戦死       │

├惟時(一二一五頃の生れ)───────────────────────┐│

└惟基                                 ││

┌───────────────────────────────────┘│

│┌───────────────────────────────────┘

│└惟治(一二四〇頃の生れ)

├─惟親

└─信治─────────────────────────────────┐

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└信胤(一二七〇頃頃の生れ)───────────────────────┐

  碓井姓西郷氏当主忠昌の娘の婿養子となる。               │

  相模国葉山郷の長江秀景が承久の乱での戦功により美濃国不破郡今須郷を所領│

 として与えられその子長江頼景が相模国葉山郷から今須郷へ移住して美濃長江氏│

 の祖となった。                             │

  相模国長屋郷の長屋行景が承久の乱での戦功により美濃国不破郡垂井郷を所領│

 として与えられその子景頼が相模国葉山郷から垂井郷へ移住して美濃長屋氏の祖│

 となった                                │

  忠昌の実父の名は長屋頼景ではなく長屋景頼である。           │

  長屋頼景の子忠昌が碓井姓西郷氏の当主某の娘婿になった。        │

  大内惟義の玄孫信胤(惟時の孫)が碓井姓西郷氏の当主忠昌の娘婿になった。│

  西郷信胤の子孫は─盛信─正治─正隆─盛隆─盛正と続いた        │

┌────────────────────────────────────┘

4.東三河八名郡の西郷氏

└盛信(一二九五頃の生れ)─正治(一三二三頃)──────────────┐

┌────────────────────────────────────┘

└正隆(一三五〇頃の生れ)─盛隆(一三七七頃)─盛正(一四〇五頃)────┐

  応永年間(一三九四~一四二八)の頃 三河守護代として西郷盛正が肥前国高│

 来郡西郷から三河国八名郡へ移住しその地を西郷庄と名付けたことに始まるとす│

 るものがあるが大内盛正とは別人である                  │

┌────────────────────────────────────┘

└正行(一四三五頃の生れ)─正則(一四六〇頃の生れ)───────────┐

┌────────────────────────────────────┘

├信員(一四八八以前の生れ)─────無子

├正員(一四九〇以後の生れ) 通称孫太郎 弾正左衛門 明傳入道

│   戦国時代(一四六七又は一四九三~一五九〇)後期に西郷氏が三河国八名郡

│  辺りを領した

│   大永三年(一五二三)頃 信員及び正員兄弟が八名郡西郷庄嵩瀬郷及び月ヶ

│  谷郷(現豊橋市嵩山町)の堺の山上に月ヶ谷砦を築き嵩山郷に居館を置いて本

│  拠とし石巻西郷氏の祖となった

│   後に五本松城(現同市石巻中山町)を築いて本拠を移した

│   天文年間(一五三二~一五五五)の半ば頃 西川郷(現豊橋市石巻西川町)

│  に支城西川砦を築造

│   八名郡の西郷氏は三河守護代の西郷氏と同族とされている

│   八名郡の西郷氏は駿河の今川氏が戦国大名として台頭するとこれに服属した

│   享禄二年(一五二九)五月 西三河の松平清康が台頭するとこれに服属した

│   享禄三年(一五三〇)九月 清康が宇利城(現新城市)の熊谷実長を攻めた

│  時菅沼定則及び牧野貞成らと先陣を務めて功を上げた

│   正員はこの時菅沼定則の麾下に属していた

│   天文四年(一五三五)の清康の横死によって松平氏が弱体化すると今川氏

│  に再属した

│   天文二十年(一五五一)八月 十三日死去

├正勝(種員 行員)(一四九二以後の生れ)

│ │ 通称孫太郎 弾正左衛門 正室は菅沼定村(一五二一~一五五六)の姉

│ │ 永禄三年(一五六〇) 桶狭間の戦いで今川義元が戦死し松平元康が岡崎

│ │城に入って松平氏を再興すると西郷正勝は次男の清員を人質に出して元康に

│ │従った。

│ │ 永禄四年(一五六一) 五本松砦(現豊橋市石巻萩平町)を築造し麓郷に

│ │居館を置いて本拠(後の西川城)とし嵩山郷の居館には嫡子元正を置いた

│ │ 永禄五年(一五六二)九月十一日 今川軍の遠州宇津山城主朝比奈泰長に

│ │攻められ居館に火を放って自害した(嫡男元正も戦死)。

│ ├──────────────────────────────────┐

│正室 菅沼定則の娘・定村の姉                      │

├照員 一四九四以後の生れ) 通称孫次郎                 │

│   孫四郎正好の父か(人質だった十三人が今橋城下の龍拈寺で串刺し刑) │

├正忠 一四九六以後の生れ) (会津西郷氏)               │

└俊員 一四九八以後の生れ)                       │

┌────────────────────────────────────┘

├女某(一五二五頃の生れ) 遠江国の戸塚忠春室でお愛の母

│ ├──────────────────────────────────┐

│戸塚忠春(遠江国)                           │

├元正(一五三一頃の生れ) 通称孫六郎                  │

│ │ 今川義元の偏諱により元正を名乗った。               │

│ │ 永禄四年(一五六一) 父が五本松砦の麓に居館を置いて本拠としたこと│

│ │により嵩山郷の居館(月ヶ谷城)主となった。             │

│ │ 永禄五年(一五六二)九月十一日 今川軍の朝比奈泰長に攻められ討死。│

│ ├─────────────────────────────────┐│

│正室                                 ││

├清員(初め吉員)(一五三三生れ) 通称孫九郎 西川城主 酒井忠次の妹婿││

│ │ 永禄三年(一五六〇)の桶狭間の戦いで今川義元が討たれたことにより││

│ │東三河に勢力を持っていた西郷氏の正勝及び元正の親子は設楽氏や菅沼氏││

│ │等の他のの東三河国人衆とともに三河の松平氏に転属し清員は父正勝によ││

│ │り岡崎城に入った松平元康に人質として出された           ││

│ │ 東三河の諸将が今川氏に差し出していた人質十三人は吉田城下の龍拈寺││

│ │で串刺し刑に処せられこの中に清員の従兄弟正好もいた。       ││

│ │ 永禄五年(一五六二)九月十一日西郷氏の居城である五本松城(西川城││

│ │)や月ヶ谷城を今川軍の朝比奈泰長に攻められて兄元正が討死した。  ││

│ │ 父及び兄を失い自らも捕らえられたが隙を見て逃げ出し野田城へ落ち延││

│ │びて野田城の親族である菅沼氏の援助を受けた。           ││

│ │ 一説にこの頃はまだ清員は人質として岡崎にいて五本松城には居なかっ││

│ │たとするものもあるがその可能性は低い。              ││

│ │ 家康から東三河西郷氏宗家の家督を継ぐよう命じられたが頑なに拒み兄││

│ │の幼い嫡嗣子義勝への相続を願い家康が折れて義勝が家督を相続し清員が││

│ │後見した。                            ││

│ │ 清員の忠義を見ていた家康に西三河の重臣酒井忠次の妹との縁談を勧め││

│ │られてこれを娶り、その後も母方の従兄弟菅沼定盈とともに家康に忠誠し││

│ │た。                               ││     

│ │ 元亀二年(一五七一)武田氏の先遣秋山虎繁(信友)攻められて菅沼定││

│ │盈らと奮戦し武田軍を退けたが総領義勝が戦死した          ││

│ │ 義勝の幼い子を西郷氏の惣領の跡目を継がせようとしたが今度は家康は││

│ │これを認めず清員の子員好が跡目継いで後に家康の偏諱により家員を名乗││

│ │った。                              ││

│ │ 家康から義勝の継室だったお愛を側室にしたいと望まれた清員はお愛を││

│ │養女にしてから差し出した(徳川二代将軍秀忠及びその弟忠吉の生母とな││

│ │った)。                             ││

│ │ 文禄三年(一五九五)十二月十一日死去 享年六十三歳       ││

│ ├────────────────────────────────┐││

│正室 義兄酒井忠親の娘(忠次の姉か妹)               │││

├勝茂(一五三五頃の生れ) 通称孫七郎 永禄四年(一五六一)死去   │││

├信正(正時)(一五三七頃の生れ) 通称八郎太郎           │││

└清勝(一五三九頃の生れ)                      │││

  (清員の弟や従兄弟などが徳川御三家や井伊氏・戸田松平家・会津松平家│││

 などに仕えて会津藩(現会津若松市)で家老を勤め幕末に会津西郷頼母を出│││

 した。)                              │││

┌──────────────────────────────────┘││

│┌──────────────────────────────────┘│

││┌──────────────────────────────────┘

││├女愛(一五五二頃の生れ)

│││   従兄義勝の継室となったが義勝の早世により母方の叔父西郷清員の養女

│││  となって家康の側室(西郷局)となる

││└勝忠(一五五三~六一頃の生れ)

│├─義勝(一五五〇頃の生れ) 通称孫太郎

││ │││ 永禄五年(一五六二)九月十一日 父が今川軍の朝比奈泰長に攻めら

││ │││れて討死し八歳位の義勝が跡を継ぎ叔父の清員が後見した

││ │││ 元亀二年(一五七一)三月四日武田軍の三河侵攻時の竹広合戦で戦死

││ ││├──繁勝(一五六八頃の生れ)など男(一五七〇頃の生れ)二人

││ ││正室

││ │├───女(一五七二頃の生れ・家員室)及び勝忠(一五七二頃の生れ)

││ │継室愛(一五五二生れ) 義勝の伯母及び戸塚忠春夫妻の娘

││ │側室愛(一五六一生れ)説もある 

││ │    義勝の早世により母方の叔父である西郷清員の養女となった

││ │    西郷清員の養女として家康の側室(西郷局・竜泉院・宝台院)とな

││ │   った。

││ │    天正十七年(一五八九)五月十九日死去 享年三十八歳

││ ├──徳川二代将軍秀忠(一五七九~一六三二)、忠吉(一五八一~一六〇七)

││ 家康

│└─正友(正員) 通称市十郎 慶長九年(一六〇四)一月二十一日死去

│  ├─────────────────────────────────┐

│  正室 奥山朝利の娘                         │

├──家員(員好)(一五五六生れ) 通称孫九郎 弾正左衛門        │

│  │ 天正三年(一五七五) 武田氏の侵攻時に伯父義勝が戦死し家員の父清│

│  │員は義勝の幼い二人の遺児への家督相続を働きかけたが今度は家康が頑な│

│  │にこれを認めず清員の子家員への家督相続を命じられたことにより西郷氏│

│  │の宗家の当主となった                       │

│  │ 文正十八年(一五九〇) 家康の関東移封時、家員は下総国千葉郡生実│

│  │(現千葉市中央区)に五千石を与えられた              │

│  │ 慶長二年(一五九七)八月十八日死去 享年四十一歳        │

│  ├────────────────────────────────┐│

│  正室 従兄義勝の娘                        ││

├──員重 通称彦右衛門                        ││

├──守勝                               ││

└──養女愛(一五五二生れ)家康の側室(西郷局・竜泉院・宝台院)となった││

┌───────────────────────────────────┘│

│┌───────────────────────────────────┘

│└重員 延宝六年(一六七八)七月二十四日死去 清德日秋法林院

├─忠吉 庶子のため近藤秀用の養子になった

├─忠員(一五七一生れ) 通称孫九郎

│    文禄四年(一五九五)、徳川秀忠の御前に於いて大久保忠常たちと一緒

│   に元服し、秀忠の偏諱を賜い忠員と名乗る。左文字の脇差を賜った。

│    慶長二年(一五九七)八月十八日西郷弾正左衛門家員卒子孫九郎忠員嗣

│    慶長六年(一六〇一)五月二十七日 佐和山城内に於いて死去

├─康員(一五八四生れ) 通称新太郎 出羽守

│ │  兄忠員が無子のまま死去したため跡目を相続。日玄入道

│ │  慶長六年(一六〇一)、兄忠員の死去により家督を継いだ

│ │  慶長十四年十二月九日(一六〇九)、出羽守に叙任される

│ │  慶長十八年(一六一三)六月十八日死去 享年二十九歳

│ ├───────────無子

│ 正室 戸田重元の娘

└─正員(一五九三生れ) 通称孫六郎

│  慶長十八年(一六一三)六月十八日 兄康員が死去し跡目を相続

│  慶長十八年(一六一三) 兄康員の死により家督を継承し五千石の領主となる

│  元和六年(一六二〇)九月 長狭郡東条村(現千葉県鴨川市東町)に五千石の

│ 加増を受けて一万石の大名となり東条藩が立藩されて東条に陣屋を構えた

│  東条藩は館山藩改易以後はじめて安房国に藩庁を置いて成立した藩で正員は館

│ 山藩改易に際して城地の収公の任を担った一人であった

│  元和七年(一六二一)十二月二十八日 若狭守に叙任された

│  寛永十五年(一六三八)十一月十四日死去 享年四十六歳 法名惠明宗達日照

│圓通院

├────────────────────────────────────┐

  正室                                 │

┌────────────────────────────────────┘

├延員(一六一四生れ) 通称孫六郎

│││ 慶長十九年(一六一四)初代東条藩藩主西郷正員の長男として下総国千葉郡

│││生実村で誕生

│││ 寛永十五年(一六三八)十一月十四日父が死去し家督を相続した

│││ 天和元年(一六八一)四月二日三人目の男児氏員も死去して嗣子がいなくな

│││り弟用員の子茂員を養嗣子とした

│││ 貞享元年(一六八四)十一月二十五日綱吉の御小姓を勤めていた茂員が綱吉

│││の勘気を被り御小姓廃され幕府から所領の召し上げられて五千石の寄合旗本と

│││なった。

│││ 元禄元年(一六八八)二月十一日茂員を廃嫡して生家へ帰し大村純長の五男

│││丞を娘の婿に迎え寿員と名を改めさせた

│││万之 元禄三年(一六九〇)十二月二十五日寿員に家督を譲って隠居した

│││ 元禄五年(一六九二)茂員が綱吉の勘気を被った不行状に関して蟄居処分

│││ 元禄十年(一六九七)四月二十五日享年八十四歳で死去 法名實退休通明院

││├──────────────────────────────────┐

││正室 松平重則の娘                          │

│├──────────────────────────────────┐│

│継室 神尾元勝の娘                          ││

├末員                                 ││

└用員 通称八郎左衛門日忠入道 元禄十四年(一七〇一)六月十八日死去  ││

  ├────────────────────────────────┐││

正室 木原義久の娘                          │││

┌──────────────────────────────────┘││

│┌──────────────────────────────────┘│

││┌──────────────────────────────────┘

││├女某 北条氏平及び井上某室

││├重員 延宝六年(一六七八)七月二十四日死去 享年不明

││├行員 寛文九年(一六六九)六月二十日死去 享年不明

││└氏員 天和元年(一六八一)四月二日死去 享年不明

│├─女某 高力通長室

│├─女某 下野上田藩主 西郷寿員室

││  ├────────────────────────────────┐

││ 養子寿員 幼名万之丞 初重員(別名治員)(一六七三生れ) 通称靭負 │

││    肥前大村藩主大村純長の五男万之丞               │

││    元禄元年(一六八八)七月二十九日安房国東条藩第二代藩主延員の婿│

││   養子となり名を寿員に改めた                   │

││    元禄二年(一六八九)五月十八日徳川綱吉の御小姓に召し抱えられた│

││    元禄三年(一六九〇)十二月二十五日養父の隠居により家督を相続 │

││    元禄五年(一六九二)二月七日下野国上田藩に転封させられ東条藩は│   

││   廃藩となった。                         │

││    元禄六年(一六九三)十一月十三日中奥の小姓に任じられた    │

││    元文三年(一七三八)に隠居                  │

││    家督は大田原清勝の子忠英が養嗣子となって相続         │

││    寛保元年(一七四一)死去 享年六十九歳            │

│├──女某 駿河田中藩初代藩主土岐頼殷室                │

│└──養嗣子茂員 叔父用員の子                     │

│     東条藩主の伯父延員の嫡男はすべてなくなり養嗣子に迎えられた。 │

│     天和二年(一六八二)二月二十一日徳川五代将軍綱吉(一六四六~一│

│    七〇九・在職一六八〇~一七〇九)に拝謁し後に御小姓として取り立て│

│    られた。                            │

│     貞享元年(一六八四)綱吉に勘気を被り十一月二十五日御小姓を廃さ│

│    れた。                             │

│     元禄元年(一六八八)二月十一日に廃嫡された 。        │

│     貞享五年(一六八八)二月十一日養父に生家に送り返された。   │

│     代わって大村純長の五男万之丞が延員の娘婿養子となった。    │

├───男某                               │

├───男某                               │

└───茂員 幼名万吉 通称数馬 叔父延員の養子となる          │

┌────────────────────────────────────┘

└女  婿養子に迎えた

 ├────────────嗣子に恵まれず源姓西郷氏の男系は断絶した。

 忠英 別名員丈・忠利 通称孫六郎 左衛門 彈正 禎翁)

    大田原清勝(頼母・享保十七年(一七三二)十月十六日卒)の子

    明和二年(一七六五)四月二十日