父のように慕っていた祖父が亡くなった。
前夜、祖父はちょっと不機嫌で、声をかけるのがためらわれた。
だから、目をあわさないように、部屋にあがった。
春休みの最後の日で、テレビでは犬が主人公の映画をやっていた。
とても春休み気分なんかになれない、張りつめた空気が重かった。
早朝、かたんと玄関の扉が閉まる音が聞こえた。
「おじいちゃん、出かけたのかな。」
胸騒ぎがしたけれど、確かめに行くのがこわかった。
不機嫌な祖父に会いたくなかったから。
それから1時間くらいたって、朝になった。
母から、階下に降りてこないように、いわれた。
どれくらい時が過ぎただろう。
「おじいちゃん、亡くなったよ。」
母の言葉のあと、私はすべての感覚を失った。
お葬式でもわたしは泣かなかった。
離人感が強くでていたからだ。
それは、おとなになるまで続いた。
わたしは、ずっと、
「あの夜、声をかけていたら、おじいちゃんは死ななかったかもしれない。」
「朝、もの音に気づいた時、確かめていたら、思いとどまったのに。」
と悔やみ続けた。
だれに、いうこともできなかった。
「私は人殺しだ」くらいに、自分を責めていたから。
あるひとに、聞かれた。
「ひとが死ぬ理由は、たったひとつ。なんだと思う?」
「病気でも死ねない、事故でも死ねない、自殺でも、死ねない。」
「寿命。」
わたしは、わかっていたのだ。
同じ病気にかかっても、助かるひとと、そうでないひとがいる。
同じように、事故にあっても助かるひとと、そうでないひとがいる。
死のうと思っても、死にきれないひとがいる。
死ねなかったひとに、わたしは、言ってきた。
「まだ生きろということね」と。
わたし自身、いろいろあったけれど、今まだこうして生きている。
生きる必要があるうちは、生きて、終われば死ぬ。
でも、それを決めるのは、わたしでも、あなた、でもなく、神さまと
呼ばれたりする、大いなる力。
それが、寿命。
わたしがまだ生きているのは、果たす使命があるから。
いただいたいのちを大切にして生きたいって思う。
祖父がなくなった、あの春の朝から、もうすぐ30年が経とうとしている。