10月1日(木)
今日は坊守女性研修会で、小千谷市勝覚寺 草間法照 師 の
ご法話をお聞きしました。
講題は
「されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」
という「歎異抄」の後序お言葉の一部です。

草間先生は私が真宗学院にいたときの先生でもあります
仏法をいただくことは、宗祖のお言葉をよりどころとすることだ。
先生の話は聞いてもすぐ忘れるが
宗祖の言葉は(時代を超えてここまで伝わっているのだから)必ず残る。
繰り返し読んで口にすることが大事。何度も読めば何かしら感じる。・・・とよくおっしゃっていました。
今日もそう付け加えて、「講題のお言葉をおみやげに」とお話を始めました。
お話の後半は先生がビハーラで出会ったおばあちゃんのこと。
死を前に
「念仏申してきたけど、病気になったら念仏が出ない。心を平穏にしたい。さとりたい・・・」
と言ったことから、
阿弥陀の本願の働き
「私たちがどうなったら助かったと言えるのか」というお話を聞きました。
草間先生は
私たちは頑張り、苦労しているが、何のためにしているのか。
人生どこに向かっているのか?
「全体像がぼやけている」と指摘されます。
「いずれの行もおよび難き身」・・・
本願に帰すことで方向性と意味のある人生がみんなに開ける・・・とお話しされました。
宗 正元 先生も昨日の学場で
「本願とは一生涯を統一していく、人生を創造していくような願だ」とおっしゃっていましたね。
「本願に帰す」というのが私たち真宗門徒の生活、道となっていくのですが、このことは宗祖の教えや様々な師のお話を聞くことで少しずつ身にしみていくことなんだなあといつも思っています。
簡単に言えることなんだけど、身にうなずくのは全然簡単じゃないよ・・・って
・・・私はなかなかわからないから繰り返しお話を聞いていこうと思っています。
草間先生の後半のお話が講演のメインでしたが、
私たち寺をあずかる者としては前半にお話しされた
「現在のお寺に求められる機能について」のお話も興味深く聞きました。
昔の寺は儀式(先祖供養)や聞法道場の他に様々な機能(医療・薬売り・相談・託児・集会所・戸籍管理など)を持った施設でもあり人々に頼られる要素もあったが、今は先祖供養と聞法の場が残った。
寺から発信する話はどうあるべきだろうか?
道徳や倫理の話では一時的な感動や癒しにしかならず、廃れていくだろう。
では、どういう話であるべきか?
「生死出ずべき道」としての仏法を発信すべきであろう。
これはわかりにくく難しく、聞き続けるには相当なエネルギーがいる・・・というお話。
・・・ホントそうです。先生。
どうしていったらいいんだろう。
今は目の前にあることや思いついたことをとにかくやってみるしかないなと思います。
ひとりでなく、色んな人に話したり、わからないなりに地道にやっていくしかない。
ちょっと見渡せば周りには同じ思いで頑張ってこられた先輩もいるし、少しずつ見えてくるだろうという希望もあります。
伝えていかねば・・・というより、一緒に求めていきませんか?
という姿勢なら、私にもできるかもしれない。
最後に今日の講題の前半を書いておこうと思います。
宗祖の言葉、繰り返し読む、口にすることが大事
・・・ですからね
歎異抄「後序」より
聖人のつねのおおせには、
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
ひとえに親鸞一人がためなりけり。
さればそくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」
(親鸞聖人が常におっしゃっていたことは、「阿弥陀如来の五劫という長い間の思惟の末の願をよくよく味わってみると、それはひとえに親鸞ただひとりのためでした。だから、数え切れない悪行を積んできたこの身であるのに(この身でさえ)助けようと思ってくださる阿弥陀仏の御本願のなんとありがたいことよ・・・)
今日は坊守女性研修会で、小千谷市勝覚寺 草間法照 師 の
ご法話をお聞きしました。
講題は
「されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」
という「歎異抄」の後序お言葉の一部です。

草間先生は私が真宗学院にいたときの先生でもあります

仏法をいただくことは、宗祖のお言葉をよりどころとすることだ。
先生の話は聞いてもすぐ忘れるが

繰り返し読んで口にすることが大事。何度も読めば何かしら感じる。・・・とよくおっしゃっていました。
今日もそう付け加えて、「講題のお言葉をおみやげに」とお話を始めました。
お話の後半は先生がビハーラで出会ったおばあちゃんのこと。
死を前に
「念仏申してきたけど、病気になったら念仏が出ない。心を平穏にしたい。さとりたい・・・」
と言ったことから、
阿弥陀の本願の働き
「私たちがどうなったら助かったと言えるのか」というお話を聞きました。
草間先生は
私たちは頑張り、苦労しているが、何のためにしているのか。
人生どこに向かっているのか?
「全体像がぼやけている」と指摘されます。
「いずれの行もおよび難き身」・・・
本願に帰すことで方向性と意味のある人生がみんなに開ける・・・とお話しされました。
宗 正元 先生も昨日の学場で
「本願とは一生涯を統一していく、人生を創造していくような願だ」とおっしゃっていましたね。
「本願に帰す」というのが私たち真宗門徒の生活、道となっていくのですが、このことは宗祖の教えや様々な師のお話を聞くことで少しずつ身にしみていくことなんだなあといつも思っています。
簡単に言えることなんだけど、身にうなずくのは全然簡単じゃないよ・・・って
・・・私はなかなかわからないから繰り返しお話を聞いていこうと思っています。
草間先生の後半のお話が講演のメインでしたが、
私たち寺をあずかる者としては前半にお話しされた
「現在のお寺に求められる機能について」のお話も興味深く聞きました。
昔の寺は儀式(先祖供養)や聞法道場の他に様々な機能(医療・薬売り・相談・託児・集会所・戸籍管理など)を持った施設でもあり人々に頼られる要素もあったが、今は先祖供養と聞法の場が残った。
寺から発信する話はどうあるべきだろうか?
道徳や倫理の話では一時的な感動や癒しにしかならず、廃れていくだろう。
では、どういう話であるべきか?
「生死出ずべき道」としての仏法を発信すべきであろう。
これはわかりにくく難しく、聞き続けるには相当なエネルギーがいる・・・というお話。
・・・ホントそうです。先生。
どうしていったらいいんだろう。
今は目の前にあることや思いついたことをとにかくやってみるしかないなと思います。
ひとりでなく、色んな人に話したり、わからないなりに地道にやっていくしかない。
ちょっと見渡せば周りには同じ思いで頑張ってこられた先輩もいるし、少しずつ見えてくるだろうという希望もあります。
伝えていかねば・・・というより、一緒に求めていきませんか?
という姿勢なら、私にもできるかもしれない。
最後に今日の講題の前半を書いておこうと思います。
宗祖の言葉、繰り返し読む、口にすることが大事
・・・ですからね

歎異抄「後序」より
聖人のつねのおおせには、
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
ひとえに親鸞一人がためなりけり。
さればそくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」
(親鸞聖人が常におっしゃっていたことは、「阿弥陀如来の五劫という長い間の思惟の末の願をよくよく味わってみると、それはひとえに親鸞ただひとりのためでした。だから、数え切れない悪行を積んできたこの身であるのに(この身でさえ)助けようと思ってくださる阿弥陀仏の御本願のなんとありがたいことよ・・・)