今日は
宗 正元先生の学場でした。

県内各地から大谷派の僧侶のみなさんが聴講においでくださいました。
先生はだいぶお年なんですが、午後2時過ぎに東京からいらっしゃって、6時の電車でお帰りになります。
教行信証を何年も前から少しずつお話くださっています。
私が聞き出したのは数年前。真宗聖典p210の別序からでした。
今日はp223
問う。如来の本願、すでに至心・信楽・欲生の誓いを発したまえり。何をもってのゆえに論主「一心」と言うや。
答う。愚鈍の衆生、解了易からしめんがために、弥陀如来、三心を発したまうといえども、涅槃の真因はただ信心をもってす。・・・
ノートを見返すと最初の頃もp223のお話を聞いていました。
先生のお話はいつも新鮮で以前はどのように聞いたかしらと思うほど、いつも生き生きと体にしみこんでくるようです。

今日も本願に帰す
ということを丁寧にお話しされました。
(生まれ)変わるといっても独りでは変われない「親」の部分が変わらねばならない。その親にあたるものとは・・・
この身は絶えず発遣(釈迦・よき人=父)・招喚(弥陀=母)されていることを自覚できるか?
我々はどこからきたのか、どこへいくのか?一生涯を問題にするのは本願のシグナルだ。
つらいことを通して人生を創造していくような、一生涯を統一していく願。
・・・そんなお話を聞きました。
どんな現実にも誠実に真心を尽くす。
何事であれ専念するとその声が聞こえる。呼応する生活になる。
・・・というお話もしみこんできたような気がします。
宗先生が以前うちのお寺にお泊まりになったとき、私の作ったサーモンの押し寿司をとても喜んでくださいました。
以来、行通寺に来られたときは「おみやげに」と心を込めて作っています。

今日も先生は喜んでくださいました
母もひじきの煮物をおみやげにしていました。
次の学場は11月25日(水)浄敬寺様が会場になります。
宗 正元先生の学場でした。

県内各地から大谷派の僧侶のみなさんが聴講においでくださいました。
先生はだいぶお年なんですが、午後2時過ぎに東京からいらっしゃって、6時の電車でお帰りになります。
教行信証を何年も前から少しずつお話くださっています。
私が聞き出したのは数年前。真宗聖典p210の別序からでした。
今日はp223
問う。如来の本願、すでに至心・信楽・欲生の誓いを発したまえり。何をもってのゆえに論主「一心」と言うや。
答う。愚鈍の衆生、解了易からしめんがために、弥陀如来、三心を発したまうといえども、涅槃の真因はただ信心をもってす。・・・
ノートを見返すと最初の頃もp223のお話を聞いていました。
先生のお話はいつも新鮮で以前はどのように聞いたかしらと思うほど、いつも生き生きと体にしみこんでくるようです。

今日も本願に帰す
ということを丁寧にお話しされました。
(生まれ)変わるといっても独りでは変われない「親」の部分が変わらねばならない。その親にあたるものとは・・・
この身は絶えず発遣(釈迦・よき人=父)・招喚(弥陀=母)されていることを自覚できるか?
我々はどこからきたのか、どこへいくのか?一生涯を問題にするのは本願のシグナルだ。
つらいことを通して人生を創造していくような、一生涯を統一していく願。
・・・そんなお話を聞きました。
どんな現実にも誠実に真心を尽くす。
何事であれ専念するとその声が聞こえる。呼応する生活になる。
・・・というお話もしみこんできたような気がします。
宗先生が以前うちのお寺にお泊まりになったとき、私の作ったサーモンの押し寿司をとても喜んでくださいました。
以来、行通寺に来られたときは「おみやげに」と心を込めて作っています。

今日も先生は喜んでくださいました

母もひじきの煮物をおみやげにしていました。
