紫の物語 | Gwenhwyval(グウェンフウィファル)の舞台日記

Gwenhwyval(グウェンフウィファル)の舞台日記

鑑賞は生中心主義。自分の眼でライブで見たことを中心に、語ろうと思います。

(観劇話ではありません、御容赦を)


年度末でてんてこ舞いなのと、週末出掛けてるのと、壊れたテレビの代替品を買えてないのとで、自分でもなんで見ないんかい!とつっこみたくなるのですが、大河ドラマ「光る君へ」を見られておりません…トホホです。

もちろん最近は後追いでも見られるのですけどね。


友人ともしみじみ話してるのですが、ためた録画あるいは見逃し配信を見るには、その時間をあらかじめ確保してスケジュールに入れとかないと絶対にダメだ、と。

リアルタイムでしか見られなかった時代は遠く、いくらでも見る方法はあるのだけど、人間の持ち時間は1秒も変わっていない。

あらゆる産業がその持ち時間を奪いに、襲いかかってくる!


それはさておき、私は源氏物語大好きで、多分登場人物かなりの人数言えます。もちろん大和和紀先生のお力大いに借りてですけど。

なのにどうして見ないんだよー。


それでも、ご覧になった方々の感想とか聞くと、ヒロインはマジで道長と恋仲で、側室イヤってのでお別れした、ということらしいですね。なるほど…。


源氏物語は「紫の物語」と言われていたという。


つまり当世、いや、同時代っていうかコンテンポラリーには紫の上がヒロインだったってことなのかな?とずっと思ってました。いや宝塚てき「相手役」なのではなくて「主演女役」ってこと。国文学とか専攻してないかよくわかんないのだけど

それが評判だったから為時の女(むすめ)とかではなく一応「紫」式部って呼んでもらってるのですよね、まあ、女房名だが。


幼かったので、私は紫の上が正妻じゃないとかよくわからなかった。だってどの描写からしても一番の人ではないですか。初恋の人と瓜二つなんだし。

…なのに、身分高い皇女の降嫁で、紫の上は「天下晴れての妻」ではないことを思いしらされる。相手はとても若い(源氏がロリコンかどうかはおいといて)けど、この際物語に意味があるのは「身分」でしょう。

紫の上は、源氏に抜きがたい身分コンプレックス…というか自分こそが本当は、という思いがあると改めて思ったのだろうなー。

で、自らは正式に結婚のお披露目もしていない、誘拐同然の身。宮家の姫君なのにお披露目しなかったんだーとか私は思いましたけど、やはり後ろ楯になるような権勢のある家の出じゃないと彼にはダメだったんだな(なんとなれば自分の母がそうでなくて自分の身分に影響したから)。

で、その座「正妻」を空けといた。しれっと、ね。

明石の上みたいに素敵そうな人が現れても子どもができても、紫の上が一番、みたいに読者に思わせといて…。

しかもまあ、初恋のひとの姪ってのまで同格の、身分高き女性(二品内親王)の突発的登場。式部凄い。最初から考えてたのか?


女三宮の降嫁はこのへんの事情が一気に露見した(あ、私には、です)ショーゲキの帖でした。


もとは紫の上の物語だった。

「光る君へ」は、正妻の座に就かなかった自分を描いたという設定なのでしょうか?

…って、一回も見てないので妄想です。あーどこかでぜったいまとめて見ないと…光る君休暇とろうかなあ。


それにしても、紫の上の物語がなんで源氏の物語になってしまったのだろう。乗っ取りか?

なんて、フェミニストシンパの私は思うのでした。