「イザボー」2回目じっくり考えた。 | Gwenhwyval(グウェンフウィファル)の舞台日記

Gwenhwyval(グウェンフウィファル)の舞台日記

鑑賞は生中心主義。自分の眼でライブで見たことを中心に、語ろうと思います。

2024年1月20日12時30分公演

配信もあったらしいので、ネタバレご容赦スタンスにて。

初日の印象そのままに演者たちは素晴らしく、重い3時間を過ごしました。
分けても那須さんの歌、そしてアンサンブルのみなさまの、初日からの進化が見えて。この分ではどこまでクオリティ高くなるのか、この「イザボー」。
この世に産まれおちてまもない作品ですから、形も柔らかく、いかようにも変化できそうな…。

そして私も、2回目に相応しくいろいろと考えた。
まずは、初日に見て弱いと思った
「なぜ彼女は最悪の王妃になったのか」
には、いくつかの回答を持たせることができるかな、と。

幸せになりたかったから。
夫を愛していたから。
子どもたちを守りたかったから。
自分を自分たらしめるものを追求したから(具体的にこういう言葉遣いだったかあやふや)

特に「幸せになりたかった」というフレーズは多用されるけど(幼い自分からも投げかけられる)、うーんそれ、なんだか近代的な概念のような…違いますかねー…という、少しの座りの悪さ。特に上流階級において。
もちろん「幸せ」という状態は結果的に存在はしただろうけど、追求に値する個人的な「幸せ」とか、コンセプトとして存在したんだろうか、その頃。
(ちなみに、支配者である彼ら階層から、民の幸せという言葉は出てきません)
スマホとか断頭台はこの時代ないから!って冒頭で叫んでる演出になってますけど、こういう思想史てきなものも大切じゃないかと思うのですが…。

夫と子どもを守るため、というのは女が動く動機付けとしては(とくに、男性作家が描きそうなものとして)比較的理解できるような…。ロマンチック・ラブがベースってことですね。
ですが、それだったら「大切なものを守るために、殺さなければ、殺される」というヒリヒリした切迫感をもう少し示されたら、よかったな。
例えば以前見たナタリー・ポートマンとスカヨハの「ブーリン家の姉妹」。それこそなんでこうなったばなし、ヘンリー8世時代だから「イザボー」より少し後なんだけど、その暗い描写や暴力的な科白の応酬が圧倒的で「うわーこりゃ、自分が明日も息をしているために人をはめて消すんだな」と思わされた。ああいう血の滲む焦燥と絶望。
例えば絶望は「絶望ー」と歌い上げればいいってものではなくて、そこに収斂する描写がなくては。いくら望海風斗が当代一の歌い手でも、です。

最後の「自分を自分たらしめるもの探求」という動機は私は一番好きだけど、これも裏付け描写弱い…し、それこそ近代的思想な気もする。中世に、どうなんだろう。

もうひとつ、ジャンヌダルクの思わせ振りな一人二役。
これはなんでしょう、別に必然性はない…なんか意味を読んじゃうと全体のフレームが崩れませんかね?と素直に思いました。
うちなる自分はジャンヌダルクだった…とか?いやいやいや…まあ既成概念ぶち壊す女、っていう意味かもしれないけど、あまりな飛躍。
昨今多い「解釈お任せします」って感じにしては、すみません、やや雑かも、と思っております。

さらには男尊女卑への糾弾みたいなものが、なにやら真面目に描かれる。
うーまあ、これはここで言われなくても今さらな気もしました。これ14世紀の話ですが21世紀の日本もたいして変わってないよ。

…と、いろいろ考えてしまいましたが、全てこれ、作品側への感想で、出演者の方々の演技、技術、熱演はめちゃくちゃ高レベル!
作品にしても、も少し手直しして「エクスカリバー」みたいに非欧米発輸出ミュージカルにならないかなー…うーん、楽曲が日本語に合わせてるから難しいか…。

自戒も込めて、何でも欧州から来るものをありがたがるだけでは、ちょっと淋しいですよね。
その昔、外国の作曲家を招聘して宝塚が「ナポレオン」を凄い予算で作り、海外輸出を!なんて言ってたこともありますが(そして全くの絵空事でしたが)、そんな時代もそろそろ来て欲しいなーと思うものであります。