ただいまを言う相手 | ぐわっぱのできるかな

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生きております。土曜日には「この先、もうベッドから起き上がれないのでは…」という感覚でしたが、食っちゃ寝の生活をした結果、今日にはなんとか動けるようになりました。明日からはけっこう早起き生活になりそうなので、きちんと寝てペースをつかみたいです。



「人の視線を感じながら作業する」ということが、かなり苦手だ。試行錯誤の過程を見せるよりも、「どこからともなく結果が現れる」というような結果の見せ方の方が好きなせいか、どうしても「人に見られる可能性がある」状態で、自分の試行錯誤をさらすのがつらい(ちなみに実際の仕事の現場では、前者の考え方の方がおそらくスムーズに進む気がする。その辺りは、本当に困ったものだと思う)。

最近思うに、もしかするとこの性向は、自分の育ちに関連することなのかもしれない。自分は一人っ子でしかも鍵っ子だったので、帰宅した後も平日夜までは確実に「一人の時間」だった。そこでは人の目を気にすることなく自分の世界に没入できたし、たとえ定期試験前であれ、自分の興味の赴くままに行動できた。親と顔を合わせる時間は、どちらかというと「成果を示す時間」であり、「ハレ」と「ケ」の区別で言えば、どちらかというと「ハレ」の時間であったように思う。

今にして思えば、自分の中にあるこのような区切りが、現在の苦手意識を生んでいる気がする。他人のいる環境では勝手に「公モード」になってしまうために、どこか落ち着かない。「一人の自分」と「公の自分」の位置づけが大きく乖離していて、その間に「他人と心地よく生活する自分」という枠組みが設けられていない気がする。

その点、帰宅しても(ほぼ確実に)家族が家にいた人たちは、もう少し柔軟に他人とのインターフェースを作れている人が多い気がする。他の人が周囲にいても、自分にとって心地よい自分を演じる術に慣れているように感じる。それはひとつの「社会性」なのだと思う。もちろん、家の中にひとつの「社会」があるせいで、子どものときに苦労をしたこともあるだろうとは思う。ただ、そういう苦労を経ないまま大人になってしまった自分としては、その苦労も含めて素直に羨ましい。彼らには、世の中はどのように見えるのだろうか。帰宅したらそこにいる「家族」というのは、どのような存在なのだろうか。

まあ、無い物ねだりだとは思う。結局「鍵っ子」だとかそういうのに関係なく、うまくいっている人はうまくいっている、というだけの話なような気もする。それでも、同僚がいる場でももっと自然な形で「一人の自分」に近い状態が作れるようになりたい、と思う。