雑話126「エドヴァルド・ムンク」
先週、ムンクの「叫び」をオークションの注目作品としてご紹介しましたので、今週はムンクについてお話しましょう。
エドヴァルド・ムンク「叫び」1893年
上の「叫び」を見ても明らかですが、ムンクの絵は単純化された平面的フォルムと様式化された流麗な線が特徴です。
これは彼がモチーフを忠実に再現するのではなく、精神的な内面に向けられた芸術を理想とした結果生まれた、彼独自のスタイルです。
ムンクの絵の主題の多くは彼の昔の思い出や、彼の周りで起こった出来事からインスピレーションを得たものです。
例えば、初期の傑作である「病める子」は、医師だった父親が治療していた小さな男の子を心配して悲嘆にくれるその子の姉の顔と、ムンク自身の姉の死を一つに結び合わせて、青春と死という普遍的意味を持つ悲劇を表現しています。
エドヴァルド・ムンク「病める子」1885-6年
ムンクの情緒的絵画は母国ノルウェーではまったく理解されませんでした。そこで、彼は自身の作品をシリーズ化し、それらを一同に展示することで観衆の理解を深めようとしました。
「生命のフリーズ」と名づけられた絵画シリーズは、全体で一つの生命の絵を成すもので、それらを貫いて曲がりくねった海岸線が走り、その向こうには海が広がっており、梢の下では喜びや悲しみを伴うさまざまな生が営まれています。
エドヴァルド・ムンク「生命のダンス」1899-1900年
「叫び」をはじめ、ムンクの代表作の多くはこのシリーズの一部です。1891年から始められた「生命のフリーズ」は1900年に完成するまで、多くの作品が描かれました。
1900年以降のムンクは次第に新しいモチーフとして自然に向かいました。それらの新しい主題において、彼はより輝かしい色彩を用いるようになり、1890年代の平面的描写や渦巻くような描線から離れて、もっと自由で粗い画面へと向かっていきました。
エドヴァルド・ムンク「白夜」1901年
その頃、かつての愛人がストーカーと化し、ムンクは何度も逃避行を強いられることになります。そのせいで神経障害と飲酒癖が悪化しますが、この不幸な恋愛のもつれは、1902年の彼女の発砲によって、ムンクが指の一部を失ったことで終焉します。
その後も何度か精神的危機を経験したムンクは、1909年に受けたコペンハーゲンの病院での治療により回復することができました。
エドヴァルド・ムンク「ヤコブセン医師の病院での自画像」1909年
※療養所を出る決意を固める前に、自己診断の意味で描かれました
しかし、1909年以降の作品のひとつの側面は、初期作品における関心やモティーフの繰り返しとも言えるものでした。これはまた、彼の把握力や技量の衰えを明かすものですが、人生の難関を芸術によって解決してきたムンクにとって、心の平安は創作の源泉を減らすことにつながったのかもしれません。
治療している間に、ノルウェーではムンクの友人たちのおかげで、国家による彼の主要作品の買い上げが決まったり、大規模な展覧会が開かれるなど公的な成功を納めることができました。
帰国後は、オスロ大学壁画のコンペティションにも選ばれるなど、画家としての人生がようやく順調に進めはじめると、国際的な名声も高まり、展覧会の数も増え続けました。
その後も、多くの作品を制作したムンクは1944年に自宅で平穏な死を迎えました。短命だった多くの彼の家族のせいで、「病、狂気、死」が生涯にわたってつきまとったとしていたムンクでしたが、亡くなる前年の12月には80歳の誕生日を迎えるほど長生きできたのでした。




