印象派の画家たちは、近代化された都市として生まれ変わったパリの華やかな生活を描きましたが、その頃の日本の美術界はいったいどのような様子だったのでしょう?
印象派が活躍し始めたのは1860年代でしたが、当時日本は激動の時代を迎えていました。
ペリーが浦賀に来て、鎖国していた日本に開国を迫ったのが1853年のことです。日本中が大騒ぎとなり、鎖国か開国か、また天皇中心か幕府中心か、国の将来をめぐる争いが血みどろで行われることになったのです。
黒船来航の様子
そして、幕府が倒れたのが1868年、時代は明治となり、ご維新の文明開化、西洋の文物を積極的に学び取る時代に変わったのです。
日本の近代洋画の基礎をつくった高橋由一が、友人に借りたヨーロッパの石版画を見て、洋画制作を志し、幕府の洋書調所画学局に入局したのが1862年でした。
高橋由一「丁髷(ちょんまげ)姿の自画像」1866-67年
その当時、一般人にとって油彩画を見る機会など皆無で、画学局では翻訳されたオランダ書から遠近法や明暗法などの理論を学ぶのがやっとのことでした。
したがって、油彩画材など知るすべもなく、1863年の遺仏使節団が官費で購入し持ち帰ったものが、はじめて目にする本物の洋画材でした。
何もかも手探りのなか、由一は横浜の居留地に住むイギリス人画家チャールズ・ワーグマンを探し出し、1866年からようやく本格的な油彩画の指導を受けることになりました。
3年ほどのワーグマンとの師弟関係を経て、油彩画の技法を身に着けた由一は、その後日本を代表する洋画家となりました。
高橋由一「鮭」1877年頃 (重要文化財)
また、1876年には明治政府は豊かで強い国を作るために、技術者育成の目的で工部美術学校を作りました。
イタリアからバルビゾン派の系譜に連なる画家であるアントニオ・フォンタネージが招かれ、浅井忠、小山正太郎、松岡寿、山本芳翠らが本格的な西洋画の勉強に臨みました。
浅井忠「グレーの秋」1901年
パリで最初の印象派展が開催されたのが、同時期の1874年です。印象派はその後酷評されながらも着実にその評価を高め、当時の主流派となっていきました。
一方、日本では西洋画が、文明開化、西洋化型近代化という時代の波に乗って普及し始めたかにも見えましたが、政府の政策が一時的に変わり、1882年頃から西洋画の普及に逆風が吹きました。西洋化一辺倒ではなく、日本独自のよさを宣伝したほうが日本のためになると判断したからです。
1889年に日本画の革新運動の末、東京美術学校が開校しましたが、それに対抗するために、洋画家たちは明治美術会を発足させます。
西洋画陣営は1893年にパリで留学していた黒田清輝の帰国により、新たな力を得ます。黒田の導入した、自然の光の下で、明るく伸び伸びと開放的に描く手法は外光派と呼ばれ、多くの共感者を集めて白馬会が生まれました。
黒田清輝「湖畔」1897年
そのなかには、藤島武二、岡田三郎助、和田英作など日本の初期の洋画界をリードした画家たちがいました。こうして、白馬会のメンバーを中心に勢いを得た洋画家たちは、1896年に東京美術学校に西洋画科が設置されたことで息を吹き返したのです。
和田英作「富士」1918年
印象派の画家たちが大家となった1900年前後の日本では、富国強兵政策の下、日清戦争と日露戦争の勝利を収めたことにより、先進国入りが実現したとし、それにふさわしい文化の育成を目指しました。
そこで政府は、国が主催する展覧会を開催することを定め、1907年に文部省美術展覧会が誕生しました。こうして、画家たちには権威と名誉が与えられ、明治の美術は国家の美術となりました。
印象派の創成期はまさに日本の洋画の創成期と重なります。だから、当時の日本の洋画が印象派と比べて、古臭く感じたとしても無理はありません。
時代の最先端の美術と生まれたばかりの未熟な美術、100年以上経過した現在では、その差は克服できたのでしょうか?