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地球環境キャンペーン

地球環境エコロジーに対するキャンペーン

1950年3月23日、気象事業の国際協力体制を整備強化する目的の世界気象機関条約が発効し、WMO(世界気象機関)が正式に発足した。その10周年にあたる61年に、気象事業の国際的協力の意義を認識し、その発展を記念して3月23日を「世界気象デー」に制定。地球環境エコロジーに対するキャンペーンを行っている。ちなみに日本は53年に加入している。

3月23日の出来事

1246年:北条時頼が執権に就任
1765年:北米植民地に課する印紙法が英議会を通過
1838年:緒方洪庵が大阪で適々斎塾を開く
1857年:ニューヨークのデパートに世界初のエレベータが設置
1887年:所得税法を公布
1895年:李鴻章が第3回日清講和会議の帰途狙撃される
1919年:イタリアでムッソリーニがファシスト党結成
1933年:ドイツでヒトラーが独裁権を獲得
1953年:中国からの引き揚げ第1船が舞鶴に入港
1956年:パキスタンがイスラム教徒による最初の共和国となる
1987年:ファミコン発売以来約3年半で1000万台突破。

緒方洪庵の適々斎塾

■3月23日<今日の雑学>
大塩平八郎の乱がおこった翌年の1838年3月23日、緒方洪庵は、大阪の瓦町で医学・蘭学を教える適々斎塾(適々塾、適塾とも)を開設。洪庵の医師・医学者としての実力と人柄、医学を志す者以外にも広く洋学を教える開放的な塾風から、3000人もの塾生が集まった。そこからは維新や明治期に活躍する、橋本左内、福沢諭吉、大村益次郎、大鳥圭介、長与専斎など多くの人材が育った。1810年に備中足守で生まれ、大阪で医学を学んだ洪庵は、30年に江戸で蘭学を学び、36年には長崎で蘭方の知識を深めた。62年には幕府に迎えられて奥医師兼医学所頭取となったが、翌年には江戸で急死している。医師としては種痘の普及やコレラの治療を行い、その熱心で適切な治療は、西洋医学に対する信頼や蘭学医の社会的地位を高めたといわれ、著書も多い。

WMO条約が発効

1951年、世界気象機関(WMO)条約が発効された。WMOは、世界的な気象協同観測や気象資料などの交換組織。発足10周年を記念して「世界気象デー」と制定。

3月22日生まれの著名人

1599年:ファン・ダイク(画家)
1797年:ウィルヘルム1世(ドイツ帝国初代皇帝)
1887年:中山晋平(作曲家)
1914年:丸山真男(評論家)
1934年:大橋巨泉(テレビタレント)
1937年:村川透(映画監督)
1969年:有働由美子(アナウンサー)
1979年:馬場裕之(タレント)

水の日

1992(平成4)年の国連総会で決定し、翌1993(平成5)年から実施。国際デーの1つ。地球的な視点から水の大切さ、貴重さを世界中の人々がともに見詰め直す日。

迷いと判断

■3月22日<松下幸之助一日一話>
私は極小の商売から今日までの間、たとえば“新しい仕事をすべきか否か”を決める場合、全部自分一人で決断してきたかというと、決してそうではありません。自分はやりたいと思うけれども、それだけの力があるかどうか自分で判断がつかないというときも実際ありました。そういうときにはどうしたかというと、第三者にすっかり打ち明けて「いまこういうことで迷っているんだ、君ならどう思うか」と尋ねました。「それは松下君、あかんで」「きみの力やったらやれる」といろいろ言ってくれる。迷ったときには、私は得心のいくまで他人の意見を聞いてみるということをやりながらだんだん大きくなってきたのです。

ラジオ放送が開始

日本初のラジオ放送が開始

1925年3月1日、NHKが開局。3月22日午前9時30分、東京芝浦の東京高等工芸学校に設置された東京放送局の仮スタジオから、日本初のラジオ放送が開始され、これを記念して、NHKが43年に記念日を定めた。50年には、放送文化賞が設けられ、毎年この日に発表されている。

3月22日の出来事

1807年:西蝦夷地を松前藩から幕府直轄領とする
1864年:フランス公使ロッシュが着任
1870年:東京府が人力車の製造・営業を許可
1896年:日本銀行落成
1897年:「ザ・ジャパン・タイムズ」創刊
1925年:社団法人東京放送局(現:NHK放送センター)の仮スタジオからわが国初のラジオの試験放送を開始
1945年:エジプト・レバノン・シリアなど7か国が「アラブ連盟」を結成
1953年:鳩山一郎、自由党結成
1985年:初のエイズ患者確認を厚生省発表
1995年:ロシアの宇宙ステーション「ミール」で宇宙滞在438日の新記録を達成して帰還

人力車普及の理由

■3月22日<今日の雑学>
1870年3月22日、東京府(現在の東京都)が人力車の製造・営業を許可した。許可を受けた人物のなかに東京の料亭で働いていた和泉要助という人物がおり、彼が一般に人力車の発明者だといわれている。人力車は当初、なかなかお客がつかなかったが、もの珍しさから次第に人気を集め、数年後には全国的に普及するようになった。当時、車賃は籠賃の約2倍だったが、籠より早くて乗り心地はよかった。また、人力車は座席の高さも人気の秘密だった。それまで侍や商人にひざまづきながら見上げる暮らしを強いられていた庶民にとって、人力車に乗って人を見おろしながら走ることは実に気持ちがよく、人力車の普及の背景にはそうした庶民感情も働いていたといわれる。