緒方洪庵の適々斎塾
■3月23日<今日の雑学>
大塩平八郎の乱がおこった翌年の1838年3月23日、緒方洪庵は、大阪の瓦町で医学・蘭学を教える適々斎塾(適々塾、適塾とも)を開設。洪庵の医師・医学者としての実力と人柄、医学を志す者以外にも広く洋学を教える開放的な塾風から、3000人もの塾生が集まった。そこからは維新や明治期に活躍する、橋本左内、福沢諭吉、大村益次郎、大鳥圭介、長与専斎など多くの人材が育った。1810年に備中足守で生まれ、大阪で医学を学んだ洪庵は、30年に江戸で蘭学を学び、36年には長崎で蘭方の知識を深めた。62年には幕府に迎えられて奥医師兼 医学所頭取となったが、翌年には江戸で急死している。医師としては種痘の普及やコレラの治療を行い、その熱心で適切な治療は、西洋医学に対する信頼や蘭学医の社会的地位を高めたといわれ、著書も多い。
大塩平八郎の乱がおこった翌年の1838年3月23日、緒方洪庵は、大阪の瓦町で医学・蘭学を教える適々斎塾(適々塾、適塾とも)を開設。洪庵の医師・医学者としての実力と人柄、医学を志す者以外にも広く洋学を教える開放的な塾風から、3000人もの塾生が集まった。そこからは維新や明治期に活躍する、橋本左内、福沢諭吉、大村益次郎、大鳥圭介、長与専斎など多くの人材が育った。1810年に備中足守で生まれ、大阪で医学を学んだ洪庵は、30年に江戸で蘭学を学び、36年には長崎で蘭方の知識を深めた。62年には幕府に迎えられて奥医師兼 医学所頭取となったが、翌年には江戸で急死している。医師としては種痘の普及やコレラの治療を行い、その熱心で適切な治療は、西洋医学に対する信頼や蘭学医の社会的地位を高めたといわれ、著書も多い。