たとえ他所からの借り物であっても、いいことは学び、どんどん取り入れよう | 早川忠孝の一念発起・日々新たなり 通称「早川学校」

早川忠孝の一念発起・日々新たなり 通称「早川学校」

弁護士・元衆議院議員としてあらゆる社会事象について思いの丈を披歴しております。若い方々の羅針盤の一つにでもなればいいと思っておりましたが、もう一歩踏み出すことにしました。新しい世界を作るために、若い人たちとの競争に参加します。猪突猛進、暴走ゴメン。

日本の憲法はアメリカが書いた、とアメリカのバイデン副大統領が演説したことが今日の新聞各紙で取り上げられたが、バイデン副大統領の物言いからするとアメリカの教育ではどうやらこれが国民の常識のようである。

 

たしかに憲法の草案はアメリカから頂戴したが、実際にはそれを多少アレンジして日本の国会でそれなりに審議し、しかも多くの国民の賛同を得て、帝国憲法の改正の正式な手続きに則って制定し、天皇が交付している。

 

アメリカが書いたものだ、と強調すれば、アメリカが書いたものだったら日本のものではないではないか、アメリカが書いた憲法なら無効じゃないか、という憲法無効論を招来することは必至だから、私は、誰にしろ、日本の憲法はアメリカが書いた、などと声高に主張されることには抵抗している。

 

アメリカが日本に押し付けた押し付け憲法だ、という物言いが成立する側面があることは否定しないが、アメリカが書いたのは英文の草案の方で、日本の憲法は日本人のものである。

 

英文の当初の草案にあった一院制は二院制に変えているし、土地の公有についての一文は削除し、私有財産制を明記している。

一番肝心な憲法9条の戦争放棄の条項についても、国会の審議の過程で、自衛権の全面放棄にまで繋がらないように文言を付加している(いわゆる芦田修正)。

国会の審議に当たっては当時貴族院議員であった日本の著名な憲法学者も参加し、意見を述べているのだから、日本の憲法はアメリカの憲法ではなく、やはり私たち日本人の憲法だ、というのが私の認識である。

 

日本としては、日本の憲法はアメリカが書いた草案の線には即しているが、しかし間違いなく私たち日本人の憲法だ、と反論するのが筋だろう。

 

かつて、私は、押し付け憲法論を排するために、日本の憲法はアメリカからの借り物だと考えるくらいがいいのではないか、と述べたことがある。

 

しかし、現在は、たとえ当初は借り物だったにしても、憲法が制定・施行されて70年にもなろうとしている今日では、立派に自分の物になった、と言ってもいいのではないかしら、と思っている。

他人が書いた、と言えば、何となくそれが引け目になり、日本の憲法に誇りが持てなくなってしまうようなことがあるが、やはり私たちは自分の国の憲法に誇りを持った方がいい、自分たちの国に誇りを持った方がいい、というのが現在の私の率直な心境である。

 

まあ、皆さんには皆さんなりの感想がおありだろうが。