非常識は、普通の切磋琢磨では克服できないのかも知れないが・・・ | 早川忠孝の一念発起・日々新たなり 通称「早川学校」

早川忠孝の一念発起・日々新たなり 通称「早川学校」

弁護士・元衆議院議員としてあらゆる社会事象について思いの丈を披歴しております。若い方々の羅針盤の一つにでもなればいいと思っておりましたが、もう一歩踏み出すことにしました。新しい世界を作るために、若い人たちとの競争に参加します。猪突猛進、暴走ゴメン。

非常識と不勉強は別の問題で、いくら切磋琢磨のシステムを作っても非常識は克服できない、切磋琢磨で克服できるのは、せいぜいが不勉強くらいだろう、と言わんばかりにコメントを頂戴した。

ほー、そういう見方もあるのか、と思ったが、私は、切磋琢磨することによって人格が磨かれ、人間的に成長するのではないかと思っているから、単なる勉強、不勉強のことを取り上げて切磋琢磨する場がどうしても必要だろうと申し上げたわけではない。

若い方々を修行の場に放り込んで適当なライバルをあてがえば、普通の人はライバルを意識してそれなりに精進するようになるものだ。

適当なライバルがいれば、大体は慢心することはなくなる。
誰だって自分を少しでも成長させたいという願望を持っているから、目前にいるライバルの上を行こうと頑張るようになる。
もっとも、ライバルと自分の力の差があまりにも大き過ぎて、どんなに頑張っても相手の上に行くことなど出来ないと思えば、競争心などどこかに行ってしまって、ありのままの自分に安住するか、どんどん劣化していくかのどちらかになってしまう。

自分よりもほんのちょっぴり上を行く人を自分のライバルだと認識しているくらいが丁度いいのではなかろうか。

不勉強な人を勉強させるためには、どうしても勉強しなければならない場に送り込むことが必要だと思っているが、まあ、勉強しない人に周りから勉強しろと言ってもなかなか上手くいくものでもない。

あくまで、本人の自覚である。
自民党では若手議員の教育に取り組むことにしたようだが、不勉強な人に勉強しろ、と言ったくらいでどうにかなるものではない。
まあ、痛い思いをさせるしかないだろう。

切磋琢磨は、あくまで自覚している人たちの間でだけ通じることで、自覚のない人たちをただ一か所に放り込んだだけでは切磋琢磨の場が出来た、などということは出来ない。

さて、それでは常識のない人たちの非常識をいわゆる切磋琢磨で治せるか、と問われれば、本当に人格を磨くような切磋琢磨であれば非常識を改めるチャンスになるだろうと信じている。

私が求めているのは、若い方々の持っている可能性、伸びる資質を最大限に引き出すような切磋琢磨であって、非常識な人がどんどん非常識に陥ってしまうようなマイナスのものではない。
本当は選挙が若い方々の切磋琢磨の場として機能してくれればいいのだが、残念ながら今の選挙のシステムにはそういう機能が殆ど備わっていない。

まあ、ルックスのよさとか、何かしらかっこいい、といった基準でしか人を選ばない有権者にもそれなりの責任があるのだろうが。