維新の党残留組とされている方々への緊急告知ー新党結成に踏み切るべし | 早川忠孝の一念発起・日々新たなり 通称「早川学校」

早川忠孝の一念発起・日々新たなり 通称「早川学校」

弁護士・元衆議院議員としてあらゆる社会事象について思いの丈を披歴しております。若い方々の羅針盤の一つにでもなればいいと思っておりましたが、もう一歩踏み出すことにしました。新しい世界を作るために、若い人たちとの競争に参加します。猪突猛進、暴走ゴメン。

いわゆる維新の党東京組と言われる方々にはどうも法的備えが十分でないような印象がある。

ひょっとしたら自分たちの足元にまで水が押し寄せているのではないか、という危機感を持って周りを見渡した方がよさそうである。
まだ救命ボートが必要な状況にまでは至っていないが、ひたひたと水量が増してきており、今にも堤防が決壊しそうな危うさがある。

既にチロチロと水が漏れ出している。
蟻の一穴なのだが、この水漏れの穴を塞いでおかないと、いずれはそこが堤防決壊の原因となる。

政党としての運営の在り方を法理的に解明してみよう、政党の運営を司る法規範なるものを抽出して、その体系化を試みてみようと思って、企業法務や会社法務、あるいは産業法務の概念を借用して「政党法務」なる造語を創作してみたのだが、政党法務の基本中の基本となる政党の意思決定機関の在り方について維新の党の中で大変な争いが起きている。

現在は政党法がないから、基本的には契約自由、団体結成の自由、政治活動の自由という原理原則に基づいて、公共の秩序や公序良俗に反しない限り、どのような政治団体を結成することも自由だ、というのが大方の理解だろうし、私もそのこと自体には何の異論もない。
また、特に政治団体については政治活動の自由の保障の観点から高度の自治が認められるべきで、に国家権力が濫りに政党内部の問題に介在すべきではなく、司法権の介入も謙抑的でなければならない、というのもそのとおりだと思う。

しかし、政党助成金の交付を受ける政党については、特に法人格が付与され、政党が民主的に運営されることが当然の前提とされていることから、民主的運営が担保されていない政党や適正手続きが履行されていない政党のの運営について司法が介入せざるを得なくなることがあることは当然だろうと思っている。

維新の党の紛争は、もはや政党内部の自治の問題として対処できるような段階を超えてしまっている。
昨日、大阪で大阪組の人たちによる臨時党大会の開催がなされたのだから、これが党大会としての法的正当性を持つのか否かについてどうしても司法が決着を付けなければならない段階にまで来てしまった。

私の見るところ、どうやら維新の党の規約にはいくつか穴があったようである。
法的紛争にならなければ、あえてその穴を塞がないでも誰も異論がないということで通用したことも、司法の場ではまったく通用しないということもある。
穴を塞いでいれば問題はなかったが、穴を塞がないまま来てしまっているな、というのが私の感想である。

穴を塞がないでも、長年の運用や慣行で、規約に書かれていない事実たる慣習という形で何らかの法規範の成立が認められるような場合もあるだろうが、発足して1年余りの維新の党ではまだそういった紙に書かれない法規範の存在など認める余地がない。

何が問題なのかと言うと、維新の党の意思決定権限はどこにあるか、ということだ。

維新の党の規約で、党大会が維新の党の最高意思決定機関であり、重要事項の決定は党大会で決定する、とされていれば、党大会の決定に反する執行部の決定等は無効だ、という結論になる。
大阪の橋下氏の言葉は粗野だが、その立論は極めて明快で、これに対抗していくのはかなり骨だろうと思っている。

総務省が維新の党の解党手続き書類を受理してしまえば、そこで終わる。

法的備えが不十分なように見えるいわゆる東京組の人たちにはどうもこれぞという武器がなさそうである。
大した武器がないのであれば、決定的な事態を迎える前に手を打つことである。

東京組の人たちがこの段階で新党の設立に動いてしまえば、後は残った人たちに任せればいい。
勝った、負けた、と騒ぐ話ではない。
無駄な争いを避けるためには何をしたらいいのか、ということだ。

知恵のある人が一人や二人はいると思うのだが、さてどうだろうか。