まあ解釈改憲はしない方がいい、いやしてはならない、というのが建前なのだが、最高裁自体が憲法の解釈を変えた場合は解釈改憲の問題は消えてしまう。
解釈改憲が問題となるのは、あくまで行政府である内閣が自分たちの独自の判断で従前の政府の憲法解釈を変えてしまう場合である。
昨年の閣議決定による集団的自衛権に関する政府解釈の変更がこれに当る。
閣議決定をしたからと言って、違憲だったものは直ちに合憲になるわけではないことは識者が指摘されるとおりである。
違憲なものはどこまで行っても違憲だ、と言い切るのが法律家の論理としては正しい。
もっとも従前の政府の憲法解釈が誤っていた、ということになると、少々様相が変わってくる。
間違いを正しただけ、欠陥を補正しただけだ、という弁明にそれなりの説得力が出てくる。
さて、昨年の閣議決定は、それまでの政府の憲法解釈は間違いだった、と言っているのだろうか。
私の耳には、従前の政府の憲法解釈は間違いでした、という謝罪の声は一切聞こえてこない。
時代の変化、国際社会の環境の変化に合わせて憲法の解釈を変更することにした、という声しか私の耳には届いていない。
だから、こういう憲法解釈の変更、すなわち解釈改憲はいけない、ということになる。
私は、政府の従前の憲法解釈には足りないところがあった、瑕があったのだからこれを直してもいいではないか、ぐらいのスタンスでいるから、瑕を直す程度で済むのならまあ目くじらを立てなくてもいいだろう、解釈改憲はいけないが、欠陥の補修くらいならまあいいだろう、というところだ。
だから、安倍内閣に対して批判的なコメントを述べるが、安倍自民党打倒!などというスローガンには決して乗せられない。
まあ、知恵のあるみなさん、なんとかしてよ、ぐらいなところだ。
解釈改憲に似たような言葉だが、実は解釈改憲とはおよそ似ても似つかぬ別の概念である解釈合憲という言葉がある。
本当にそんなものがあるのか、と問い詰められると返答に窮するところがあるが、私が理解している解釈合憲は、すなわち裁判所による合憲的解釈のことである。
ひょっとしたら解釈合憲という概念自体はまだ確立していないのかも知れないが、一見違憲のように見える法律を、具体的法の当て嵌め、法の解釈の段階で合憲の範囲に留めようとする裁判所があることは間違いない。
法の解釈を変えれば違憲の法律が合憲になるのだから、そんな馬鹿な、という声も上がるだろうが、裁判所の法令解釈は案外柔軟で、法律の趣旨解釈を活用することによって結構妥当な結論を出すことがある。
構成要件を字義通り厳格に解釈適用すれば憲法の明文の規定に抵触し、違憲の法律と言わざるを得なくなるが、法制定の趣旨からすると立法意思はそこまでのことは考えていない、などと言いながら法の適用範囲を事実上減縮させることで一見違憲の法律を合憲に変えてしまう究極の法解釈テクニックである。
具体例を上げよと言われても即答は出来ないが、いくつかあったはずである。
有識者が違憲、違憲と叫んでいても、法律が成立してしまえば裁判所はなるべく合憲の範囲での法の適用を模索するはずだ、というのが私の見立てである。
政治的には違憲と言うのが簡単なんだが、いざ法律が成立すると事実上合憲として通用するようになるかも知れないな。
私が、内心そう思っているのは、裁判所には解釈合憲というテクニックが残っている、からである。
まあ、こういうことを考えている人は他にはいないはずだから、後日のために書いておく。
どんなことでも、憲法議論に花が咲くことはいいことだ。
少なくとも、考えるヒントぐらいにはなるだろう。