第三極の政治勢力の結集を標榜していた人たちが離合集散を繰り返して、結局は自滅への道を歩み始めているのには、それなりの理由があるのだろう。
みんなの党が解党に至ったのは惜しかったが、俺が俺が、の唯我独尊、かつ、個人商店丸出しの前近代的な党運営を続けていたのでは、やはり破綻は免れなかっただろう。
維新の会も出だしはよかったが、思想信条が異なっていると思われていた旧たちあがれ、太陽党の人たちと大義のない合併をしてしまったのがどうもよくなかった。
いつかは分裂せざるを得ない運命だったように思う。
維新の会が分裂して、本来維新の会に止まっていてもおかしくなかった人たちまでも維新の会から飛び出してしまったのは惜しかった。
結集すべき時に逆に分裂してしまったのが、やはり残念である。
折角作り上げた新党が結局は分裂してしまうのは、肝腎の纏め役を欠いていたからだと思う。
俺が俺が、という人ばかり集まっていたのでは、さすがに纏まるものも纏まらない。
色気も食い気もほどほどで、しかも他人との協調性が豊かな人を集める必要がある。
多分、黒子に徹することが出来る人がいなかったのだろう。
個人的な利害を超越して、大所高所から物を考える人がいれば何とかなったはずである。
残念だ、残念だ、と百回繰り返しても何の益もないから、繰り言はほどほどにしておくが、ここに来て何とかして欲しい、という声が聞こえてきた。
今の国会の状況を見て、このままではよくない、と思っている人がいわゆる保守層の間にも増え始めたようだ。
特に国会議員の経験のある若い人たちがそのようである。
若い同志が5人集まれば何とかなる。
当面は小さな花火にしかならないだろうが、とにかく花火を打ち上げてみることだ。
花火が上がると、大抵の人は花火の上がった方を向く。
動くのは、今である。
打ち上げ花火は、やはり憲法改正がいい。
自民党の今の憲法改正草案では、さすがに国民が引いてしまう。
保守は保守でも、穏健保守らしいマイルドな憲法改正試案を打ち上げてみることだ。