憲法解釈の変更の法的手続き | 早川忠孝の一念発起・日々新たなり 通称「早川学校」

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弁護士・元衆議院議員としてあらゆる社会事象について思いの丈を披歴しております。若い方々の羅針盤の一つにでもなればいいと思っておりましたが、もう一歩踏み出すことにしました。新しい世界を作るために、若い人たちとの競争に参加します。猪突猛進、暴走ゴメン。

段々頭の体操になってきた。

憲法改正の機運が音を立てて遠のいてきているような気がする。
65年続いてきた現在の日本の憲法は後35年くらいは改正されないでそのまま生き永らえるようだ。
100歳の憲法、などという言葉がちらついてきた。

安倍総理も憲法96条の先行改正には慎重になってきたようだから、参議院選挙が終わってもそう簡単には憲法改正の動きにはならない。
おそらく3年後の衆参同日選挙を視野において、憲法改正に向けての国民世論を形成していく方向に方針転換するはずだ。

いいことである。

2度、あるいは3度の国政選挙を通じて丁寧に憲法改正についての国民的合意を形成しようというのであれば、私ももろ手を挙げて賛成する。
たとえ選挙で大勝利を博したとしても、それでもって国民が自民党の改憲草案を支持したのだ、などと勘違いしないことだ。

憲法改正の手続きは、出来るだけ丁寧にやる。
いきなり憲法改正国民投票を実施するのではなく、予備的国民投票を実施してそれぞれの改正項目ごとに改正の要否について国民の意見を問うぐらいのことはやった方がいい。

選挙が近づけば近づくほど憲法の改正に反対する声が大きくなるだろうと思っている。

ここで憲法改正を争点化させれば、多分憲法の改正の動きは潰え去る。
憲法の改正を実現するためにあえてこの段階では憲法改正を政争の具にはしない、というのは一つの知恵だから、少なくとも安倍内閣は無理をしないはずだ。

こういう状況を踏まえると、当分憲法の改正はなくなったな、というのが私の率直な感想である。

そういう時に次に出てくるのが、憲法の解釈の方を変えたらいい、という議論である。
集団的自衛権の保有及び行使についての内閣の憲法解釈を変えればいい、などということがいずれは声高に主張されてくるはずだ。

法的にはたしてそんなことが出来るのか。

内閣が憲法解釈の変更を宣言するとして、その宣言は法的に意味があるものなのかどうか。
内閣の憲法解釈が司法を拘束する、司法の判断に優位する、などということがあり得るのか。
憲法解釈の変更をするとして、その手続きはどうするのか。
内閣総理大臣が憲法解釈を変えると宣言すればいいのか、そのれとも憲法解釈の変更について閣議決定が必要なのかどうか。
憲法解釈の変更には閣議決定が必要であるとする場合に、それでは憲法の解釈変更に反対する閣僚の意思表示はどう扱うのか、といった問題が生じてくる。

憲法解釈の変更は、国会の専権事項だとした場合には、それではどういう手続きで国会決議をしたらいいのか、という問題になってくる。

まだ誰もそこまでの議論はしていないはずだ。
皆さんのご意見をお伺いしてみたい。